以前クラス通信でごまかし勉強について、少し述べた。ここではごまかし勉強と正統派学習について、もう少し詳しく述べたいと思う。それは生徒諸君の小テスト対策をみていて、考えるところがあるからだ。なお、この記事の出典は藤沢(2002)「ごまかし勉強」をまとめたものである。
ごまかし勉強の特徴
・試験にあまりでない項目は切り捨てる。理解するのが面倒な項目も切り捨てる(学習対象の限定)
・深化学習や発展学習はおこなわない。
・言葉や用語の意味は分かる必要はない。あるいは、教科書ガイドやワークブックに載っているので、辞書を引かない。
・要点の図解は、資料集にいくらでも載っているので、自分でまとめてみる何てことはしない。
・問題の解法は1通り知っていれば、テストで答が得られるので、別解を考えたりしない。
・つまり、テストに出ないことはしない。
・定着作業だけは、試験直前に時間をかけて、繰り返しおこなう。
・暗記材料はトレーニング教材を用いる。あるいは、教科書にチェックペンでマークを入れ、丸暗記しようとする。
・このような作業は、全く面白くないが、勉強とは面白くないはずだと、割り切って考えている。
・とりあえず我慢して定着作業だけを繰り返す。このやり方で勉強すると、結構点数がとれるので、達成感がある。結果が良ければ全てよしで、これが正しい勉強法だと信じてしまって、ごまかしていることに気づかない。
生徒から次のような質問を受けることがある。
①この空欄には何が入るんですか。
②その板書はノートに書いた方がいいですか。
③そのプリントの答はないのですか(課題プリントを配ったとき)。
①の質問は空欄に入れることを覚えればいいという感覚が背景にありそうだし、②については、ノートに書いた方がいいかどうかという価値判断=テストに出るかどうかという価値判断、ととらえることができそうである。③については、もはや生徒は教科書などで調べて、自分でプリントをこなそうという感覚を持っていない。課題プリントをする=答書き写して丸暗記すること、と判断していることが分かる。これらはごまかし勉強の一部である。
ごまかし勉強の実例…これまた前述の書物からの引用させて頂く。
【英語の場合】
宿題で単語調べや全文訳を要求する先生の場合には、全て教科書ガイドに載っていますから、ノート点検がある場合には、これを写しておきます。授業中は、どこがテストに出るかに注意して聞き、出そうなところは教科書にマークしておきます。訳語選択が面倒なので、辞書は使いません。試験前には、担当の先生がプリントを配布した場合はそれを、そうでなければ出版社の作った暗記材料を暗記します。予想問題を入手し、出そうな問題の解答を暗記します。単語の練習時間があれば、綴り練習と一つに絞った訳語だけを暗記します。
【数学の場合】
予習を要求する先生の場合は、教科書ガイドの解答をノートに写しておきます。そうでない場合は、黒板に示された模範解答を忠実に移すようにします。最初から自分で解くと、誤りがノートに残ってしまうことがあるので、できるだけ予習は避けます。テスト前には、最小限の問題パターンを、誰か(友人・塾・出版物)に教わり、それの解法を書き写して暗記します。解法も一題一方法に限定します。なかなか覚えられない場合は、覚えるまでひたすら数をこなします。
【社会の場合】
授業中に試験に出そうなところを聞き取り、教科書にチェックペンでマークします。試験前にはこれに遮蔽板(色シート)をのせ、空欄補充問題集として、用語を暗記します。意味がよく分からない場合でも、できるだけ疑問は持たないようにして、機械的暗記に務めます。記述式問題が試験に出る場合には予想問題を入手し、模範解答を記入して暗記します。
大体、ごまかし勉強のイメージは掴めたでしょうか? タイピングに疲れたので、本日はここまで。
2008年7月14日月曜日
これは何? 解答編
石棺です。石棺は蓋と身からなっていますが、これは石棺の身です。上下併せてワンセットのうちの下の方です。つまり亡骸が入る方ですね。
この石棺は、西門の近く、クラブハウスの横にあります。是非、一度見に行って下さい。この話を主任のT先生としていたら、1年担任のN先生が、わざわざ加古川市史第四巻の一部をコピー持ってきて下さいました。
これによれば、加古川市内には棺蓋63例、棺身82例が存在し、これは近隣市町村と比べ、かなり多い方ようだ。本校の石棺も紹介されている(p.377)。市内では最も大きい棺身だということである。T校長先生曰く、県立考古博物館に知られたら、持って行かれてしまう…、とか。
材質は、やはり竜山石が多いようで、この棺身にように、水抜き穴があけられ、手水鉢に利用されたものも多いそうだ。
個人的に面白いと思ったのは、石棺は市内の古墳群周辺に分布するので、古墳群からそれほど移動していない(市史)、という説だ。本校の棺身もそれほど遠くないところから持ってこられたものであろう。
これを知った時、地理の古典的エピソードを思い出した。ロンドン市内でコレラが流行した際、ある医師が、患者の発生地点を市内地図上に落としたところ、患者の分布から、原因となる井戸を特定することができた、という話である。分布論は非常に有効な考え方だな、と実感した次第だ。
(14号)
この石棺は、西門の近く、クラブハウスの横にあります。是非、一度見に行って下さい。この話を主任のT先生としていたら、1年担任のN先生が、わざわざ加古川市史第四巻の一部をコピー持ってきて下さいました。
これによれば、加古川市内には棺蓋63例、棺身82例が存在し、これは近隣市町村と比べ、かなり多い方ようだ。本校の石棺も紹介されている(p.377)。市内では最も大きい棺身だということである。T校長先生曰く、県立考古博物館に知られたら、持って行かれてしまう…、とか。
材質は、やはり竜山石が多いようで、この棺身にように、水抜き穴があけられ、手水鉢に利用されたものも多いそうだ。
個人的に面白いと思ったのは、石棺は市内の古墳群周辺に分布するので、古墳群からそれほど移動していない(市史)、という説だ。本校の棺身もそれほど遠くないところから持ってこられたものであろう。
これを知った時、地理の古典的エピソードを思い出した。ロンドン市内でコレラが流行した際、ある医師が、患者の発生地点を市内地図上に落としたところ、患者の分布から、原因となる井戸を特定することができた、という話である。分布論は非常に有効な考え方だな、と実感した次第だ。
(14号)
体育祭予行をおえて
お疲れ様でした。はじめて予行を見ました。生徒会や団幹部は頑張っていることはよく分かります。でもはっきり言って怠いです。これは一体どこから来るものなのでしょうか?
それについての解答は保留することにして、10年ほど前のある高校の体育大会のことを思い出しました。
以下には、その高校のことです。 その学校でも、10年ほど前までは、生徒会中心で体育祭を実施していました。予行ではなかなか生徒会執行部が生徒を動かすことができず、もたもたしています。それを教師は見ていて、アドバイスをするだけです。教師が前面に立つことはありませんでした(うちの学校と同じですね)。予行の反省会では、生徒会役員は泣いてしまいます。
それで、その反省にたって、本番はなんとかやり遂げられる…という状況でした。ところがだんだん生徒会が生徒を指示しきれないようになってきました(うちと似ていますね)。
そこで、体育科の教員を中心に指示が出るようになり、現在では教師の仕切りのもとで、生徒会が動くようになりました。むろん生徒会も頑張っていますが、完全な自主的運営ではなくなっていきました。
どこに問題があるのでしょう。
・生徒会役員のリーダーシップが下がったのでしょうか?
・生徒の意識が低下したのでしょうか?
・教師集団が生徒の様子に我慢できなくなったのでしょうか?
いろいろ原因は考えられると思いますが、この教訓として言えることは、生徒の力が下がれば、教員が行事の主導権を握るだろうということです。それが恥ずかしいことだというように考えられますか?
一方では、生徒が一人残らず、軍隊のごとく同じ方向を向いているという状況もどうかという気持ちも、心の中にはあります。しかし、少なくとも同じ仲間の生徒が頑張っていれば、応援する・協力する・一緒に作り上げよう…という気持ちがおこって当然ではないかと思うのです。
一般社会においても自治を維持するのは大変です。侵されやすいものです。でもその重要性もかみしめてほしいのです。これが社会科教師としての言いたいこと(結論)です。
(12号)
それについての解答は保留することにして、10年ほど前のある高校の体育大会のことを思い出しました。
以下には、その高校のことです。 その学校でも、10年ほど前までは、生徒会中心で体育祭を実施していました。予行ではなかなか生徒会執行部が生徒を動かすことができず、もたもたしています。それを教師は見ていて、アドバイスをするだけです。教師が前面に立つことはありませんでした(うちの学校と同じですね)。予行の反省会では、生徒会役員は泣いてしまいます。
それで、その反省にたって、本番はなんとかやり遂げられる…という状況でした。ところがだんだん生徒会が生徒を指示しきれないようになってきました(うちと似ていますね)。
そこで、体育科の教員を中心に指示が出るようになり、現在では教師の仕切りのもとで、生徒会が動くようになりました。むろん生徒会も頑張っていますが、完全な自主的運営ではなくなっていきました。
どこに問題があるのでしょう。
・生徒会役員のリーダーシップが下がったのでしょうか?
・生徒の意識が低下したのでしょうか?
・教師集団が生徒の様子に我慢できなくなったのでしょうか?
いろいろ原因は考えられると思いますが、この教訓として言えることは、生徒の力が下がれば、教員が行事の主導権を握るだろうということです。それが恥ずかしいことだというように考えられますか?
一方では、生徒が一人残らず、軍隊のごとく同じ方向を向いているという状況もどうかという気持ちも、心の中にはあります。しかし、少なくとも同じ仲間の生徒が頑張っていれば、応援する・協力する・一緒に作り上げよう…という気持ちがおこって当然ではないかと思うのです。
一般社会においても自治を維持するのは大変です。侵されやすいものです。でもその重要性もかみしめてほしいのです。これが社会科教師としての言いたいこと(結論)です。
(12号)
登録:
投稿 (Atom)