2009年3月21日土曜日

あなたは右回りですか、左回りですか

 本校では職員室は本館2階に、2年生の教室は普通教室棟2階にある。東側と西側に渡り廊下あって、2つの建物はつながっている。教員はちら周りで授業に向かうのだろうか。学年団の生がたに対するいい加減な調査の結果、1組へかう場合は、東回り、3組~5組に向かう場合西回りで向かう教員の多いことが分かった。
 問題は2組である。職員室から2組へ向かう合、東回りの教員が多いのだが、果たして実際距離はどうなっているのだろうか。
 まず歩測によって距離を確かめてみる。教員出席簿を取ってから、教室に向かうと考えられので、出席簿置き場から、2組の教室入り口ま数えた。そして、2回の計測の結果、西回りは11歩、110歩で平均111.5歩となった。一方東回は124歩、122歩で平均123歩である。すなわち組の前入り口へは西回りの方が11.5歩ほど近い事が明らかとなった。

(地図省略)

 ついでに言うと、職員室からの中間点は2組入り口の左方6歩ほどのところである。問題は、なぜこのような認識の誤差が生じるかという問題である。

 一般に近代科学においては、理論的なモデル構築する事を目標としている。自然現象などで想定すべき条件が多くなるほど、現実値が理論から離れていく傾向が強い。人文現象を考えると人間の行動は極めて複雑な因子の組合せでおこわれるため、理論的なモデルの提示は難しいし現実との差はさらに開いていく。社会科学が科たり得るかどうかの議論はこの辺りに原因があそうである。
 さて、1960年代コンピュータの発達にともい社会科学は、計量革命にさらされた。理論をっと求めようというわけである。さらに理論値現実の値の残差にこそ意味があるのではないかいう議論も生まれた。
 紙面も尽きたようなので、次回は残差を求め立場から、この問題を議論する。
(次号に続く) 24号

行列について後悔の記

 私の高校生の頃は、2年生で行列なるものを勉強していた。今君たちが苦労しているあの行列である。計算は単純なのだが、他の分野と違って、かなり異質に感じていた。「なぜこのようなこと(行列計算)をしなくてはならないのか」という疑問が、どうしても分からなかったのである。数学の先生にもn行n列の数列について質問したり、逆行列について質問したりした記憶があるが、どうもしっくりこなかった。そのような思いのまま、数学からは遠ざかってしまった。すでにこの頃には、理系をやめることを決めていた(当時は3年で類型を最終決定していた)が、行列をする必然性、ひいては数学という勉強の意味が分からなくなったというのも、遠因であろう。もちろん勉強について行けなくなったから(?)、というのは無論のことである。
 さて、話は大学卒業の頃にまで飛ぶ。当時は、パーソナルコンピュータが売り出されはじめたばかりのことである。5万円程度のパソコンをもらって、ディスプレイ代わりの白黒テレビに繋ぎ、Basicで何か計算させるようなことをしていた。地理学科の院生だった私(沖積平野の地形勉強中)は、パソコンで地形を描画することを試みていた。地表の等高線をメッシュデータで入れて、ビューポイント(地形を見る位置)を変えると地形の見え方が、変わるというプログラムをつくりたかった。今日、コンピュータゲームやテレビ番組で、動くコンピュータグラフィック(CG)があるが、あれの地形版である。
 なぜかNECに入ってしまった友人に、そのことを尋ねると、「それは行列だ」という。簡単にいうと「一次変換」をするのだという。そういわれるそうだ。大量の標高データを一度に変換するのだから、行列が適しているのだ。そこで私は「はた」と手を打ったのである。そういえば、高校の教科書には行列の所に、猫の絵が一次変換すると、ひしゃげてしまう、という教材が載っていたではないか。そうだったのか。しかし高校をでて、すでに5年、地形のCG化の道は諦めざるを得なかった。こうして文系人間として今日に至るのである。
 ここで教訓めいたことをいうとするならば、「学校で習ったことが、いつ、どこで役立つか分からない」、「高校時代の勉強は、人生の基礎だから、きちんとやっといた方がいいよ」と言うことである。 (2006年5月記)

もうすぐ冬休み

その1 学級通信のことが、最近クラス通信にあまり出ていません。これは絵しりとりの絵をスキャナーで読み込むのが大変だからで、どうするかは検討中です(絵しりとりが終わるまで待つ?)

その2 もうすぐクリスマスです。クリスマスと言えば、様々な疑問があります。
 キリスト教とは西アジアの半乾燥地に生まれた一神教なのに…
・なぜ25日が生誕祭なのに24日夜に祝うのか。
・そもそも夏にイエスは生まれているのに、なぜ12月25日に祝うのか。
・12月25日が新年や冬至に近いのは何故か。
・冷帯林(針葉樹)であるモミをどうして、ツリーにして飾るのか。
・サンタはなぜ、ツンドラ地方に生息するトナカイに牽かれてやってくるのか。
・キリスト教徒が多くない日本にこれほどクリスマスが定着したのは何故か。
などなど…疑問の解けたものもあれば、分からないものもあります。

21号

研究とは何か

 先日、学年集会がありました。その時に感じたことをSHRで少し話しました。改めて検討したく思います。まずは学年主任のお話からです。
 T先生は冒頭、K川駅前は30年前と大夫変わってきている、と話されました。昔は人の流れがもっともあって、賑やかだった。でも今は閑散としている。むしろ東K川駅前の方が賑やかだ、という内容でした。
 これは極めて地理的な問です。2つの視点、「K川駅前と東K川駅前という地域による違い」、「30年前と現在という時代による変化」、すなわち空間と時間を比較して、なぜそうなるのかという問を立てられたわけです。これはなかなかすごいことです。
 教育の世界では「問い」と「答え」は、難しい問題です。生徒に知識やスキルを教授することはできますが、「疑問を持たせ、問いを立て、その問いに自ら答える」ということは、なかなかできません。教師による指導方法も確立しているとは言えないでしょう。なかでも生徒に質の良い「問い」を立てさせることは、困難です。
 今、「科学者という仕事」(中公新書)を読み直しているのですが、この中に「科学のセンス」の章の中で、このように述べています。

 物理の講義で聞いたことのある「究極の試験問題」を紹介しよう。これが解ければ、あなたはすぐれた研究者である。
 問題1 何かおもしろい問題を考えよ。
 問題2 問題1で作った問題に答えよ。

 そう言えば、大学3回生の時、自然科学概論で同様の問題を出題されたことがあります。それは夏目漱石の「我が輩は猫である」の冒頭が配られ、自然科学的な問題を作って、解けというものでした。悩んだ末に猫を竹藪に運んで捨てるところに着目し、放り投げられる猫の落下運動を計算した記憶があります。さすがに自由落下では面白くないので、投げあげ運動にしたような…。しかし友人は文章中で猫が運搬中揺らされて目を回したところに注目して、猫をジェットコースターに乗せて、運動量を計算したらしい。私は「負けた」と思いました。
 さて、学年集会では次にT’先生が、理系の多くの生徒は研究職になるのでは、と話されました。就職先は大学・研究機関・企業と様々ですが、大多数の生徒が大学院に進学し、研究者や技術者につくのではないでしょうか。大学の研究室(卒業研究、論文指導)では、研究の手法を学ぶのですが、研究のテーマを立てるのは難しいものです。まず学生の力で解ける(解けそうな)命題でなくてはなりません。テーマに基づき仮説を設定して、それを証明していくわけです。良いテーマを立てるには、その分野にある程度精通している必要があります。実は良い問いが立てられれば、論文はできたも同然です。問い(テーマ)を立てられない理系学生の多くの場合、指導教官からテーマを与えられて実験・観察、フィールドワークをおこなうのが通例ではないでしょうか(文系はちょっと異なりますが)。
 というわけで、「問い」というものが、研究において大事であることを述べました。理系なら、高校でもちょっと意識しておいて下さい。話題を変えます。ある大学(H大学)で、この問いの問題を追及しようと、付属小学校で研究を行いました。その結果、問いを立てることができる児童ほど多くの知識をもっているという結果が出ているそうです。問い(すなわちクリエイティブな発想と言うべきかも)は、情報量に裏付けられているのです。高校の勉強というと暗記することだと思う人が多いのかもしれませんが、ある意味それは正しいことなのかもしれません。将来、クリエイティブな発想をするための土台作りをしているとみなすことができるかもしれません。むしろそれを見通しながら、それぞれの教科において、知識理解を求めたいものです(無論、知識理解だけでなく、思考力や態度形成も重要ですが。なお、研究と教育の違いについては、別の機会に譲りたいと思います。
 さて最後に、谷先生の「問い」に私なりに2つの観点から答えておきたいと思います。これが正解かどうかは知りませんが…。まず1つは日本全体におけるモータリゼーションの進行があげられます。車社会化が進行することによって、駐車場の少ない都心(K川市では寺家町周辺)へ来ることが難しくなりました。むしろ駐車場の整った郊外のショッピングセンターで遊んだり、買い物をした方がいいわけです。アメリカでは「独立する郊外」と言われています。2つ目は、東K川とK川の駅前の地域性の違いです。どちらの街も住宅都市の駅前ですが、K川の方がまだ都心機能が高いと考えられます。つまり東K川の方が衛星都市的性格が強いと思われます。大阪・神戸へ通勤する人々がKより多いわけです。駅前の賑やかさはその反映です。難しく言えば、京阪神大都市圏の圏構造とK川市の都市構造の問題と言うことになります。
 思いついたのは、これぐらいです。今述べた仮説に基づき、人口統計処理をおこない、街頭調査をおこない、住宅地図から商業機能度を計算すれば、上記仮説は証明させるでしょう。こうして、仮説が証明されたとき、研究は(一応)完成します。このプロセスが研究です。