2009年5月14日木曜日

勉強とは何だろう。

 過日の朝日新聞で「高まる私塾熱 支える塾」という記事を目にした。あの有名な進学塾「浜学園」のことを書いているようだ。
 さて、私が気になったのは、3段目の小学生とのコメントである。その前後のパラグラフを引用すると、
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 「学校は友達と遊ぶ所、勉強は塾でする」。共学難関校の洛南高付属中(京都市)を目指す西宮市の小学6年生(11)は笑顔で言った。(中略) 受験用の複雑な計算や図形問題の解き方、年号の語呂合わせなど、小学校では習っていないことばかり。「学校の授業は退屈だけど、塾の勉強はすごく楽しい」と目を輝かせる。成績順のクラス替えも「ゲームみたいで面白い」。
 「やる気を引き立て、分かる喜びを伝える。教師の力の差でしょう」と、西宮教室の塩谷裕弘主事は言う。 朝日新聞0904
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 この女子児童は勉強とはどんなものだと思っているのだろうか。図形問題の解き方や年号の語呂暗記が勉強だと思っているのだろうか。あるいは、思わされているのだろうか。本当の勉強とは何か教わっていないところが、不憫な気がする。
 勉強とは研究の成果を辿るのが本来であろう。万有引力の法則を学習するのであれば、その時代に分かっていなかったことと課題を提示し、その解決法を考えさせる中で、万有引力という概念を導入すると、事実がうまく説明できることを学習する。できれば実験や観察で証明できれば、なお良いわけである。社会科においてもその学習法は社会諸科学の方法によるのが良いとされている。
 無論、ニュートンの頃と全く同じ時代状況は作れないし、時間も足りないので、その設定は簡略化され、効率よく教授する方法が開発される。これが科学史の世界では「Disciplineディシプリン」と呼ばれるものである。
 話しは元に戻るが、勉強とは研究活動を簡略化して追体験するのが本来であって、そこに生じる喜びを経験することが、分かる喜び(=学習の喜び)であろう。無論受験勉強においては、そんなことに時間をかける余裕はないと言われるかもしれない。しかし本当の勉強の喜びを教えないで、いいのだろうか、という疑問が残る。特に小学校時代にそれを知ることが重要である。高校3年生では遅い。こうしたことを教えることができない(力量がない)ので、成績順でクラスを入れ替えるようなゲーム化で喜びを置き換えているのだろうか。少なくとも塾教師がこれを「分かる喜び」と表現しているのは残念なところである。
 ここでは内容探求教科について述べた。英語や国語(日本語)のようなリテラシー形成に関しては、別問題であることを付記しておく。(2号)

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