この記事も、前年度分です。その1をアップしただけで、ほったらかしにしていました(-_-;)
前回の出題:長い砂浜の海水浴場があります。浜辺には海浴客が均質(ランダム)に存在しています。そ浜辺にアイスクリーム屋さんが屋台を出しまた。どこにお店を出すのがいいかと聞かれれば中央部だと答えるでしょう。
さて、この浜辺にもう一軒のアイスクリームさんがやって来て、お店を出そうとしていますどこに出すのが良いのでしょうか。またこの立戦争は、最終的にどうなるのでしょう(最終的に軒のお店はどこに立地しますか)。二店の商品類、品質、値段は同じです。非価格競争はないものとします
解答例:最初に中央に出したお店をAとします。次に別のお店が出店しました。これをBとします。下の図のようなイメージです(図省略)。
すると、Aは、客を奪われます(お客さんはAとBの中点で、分かれます)から、AはBの屋台側にすり寄っていきます。
次に客を奪われたB店はAを飛び越え、左側に屋台を移すものと思われます。そうなると今度は、Aは右へ移動し、B店に接近します。
こうしたことを繰り返すうちに最終的には、砂浜の中間点でAとBは屋台を背中合わせにして、商売をするものと考えられます。海水浴客の半分ずつを相手にする状況で安定するでしょう。
では今度は、直線的な砂浜ではなく、平野の真ん中でお店をつくればどうなるでしょうか。さらには種類の豊富な大きなアイスクリーム屋さんと小さなアイスクリーム屋さんならどうなるでしょうか…。と話しは続くのですが、もう説明する時間がないので、結論だけを書いておきますと、二つのお店の勢力圏は、店の大きさに比例し、距離のX乗に反比例します。何か思い出しませんか。物体の重力に比例し、距離の2乗に反比例すると言えば、万有引力の法則です。経済学(経済地理)の世界では、これを重力モデルと呼んでいます(帰納法的にはX乗は2乗だといわれています)。
ちょっと話しが難しくなりました(途中をはしょったので仕方がありません)。まあ「職員室へ行くとき、右回りか左回りかという問題も、突き詰めていけば、万有引力の法則とつながる」という話しでした(詳しいことは3年の後半に授業でやります)。
2009年6月22日月曜日
あなたは右回りですか、左回りですか。 その2
前回、職員室2年学年団から、2組教室へ行く際、西回りが近いにもかかわらず、東回りの先生が多いと述べた。その具体的データを示したい。職員に個々のインタビュー調査をした結果を以下に示す。
・K先生:3組は東回りと西回りで半々
・K先生・F先生・M先生:2組は東回り、3組は西回り
・T先生・T先生:3組は東回り、4組は西回り
・O先生:1組は東回り、2組は西回り
他の先生は、2組には行かないと解答。
では、2組生徒はどうなのだろうか。教室から職員室の学年の先生に会いに行くとき、どちら回りで行くかを尋ねた。その結果、西回りが12人、東回りが20人、行かないが1人となり、職員と同様の傾向を示している。つまり遠回りをする生徒が多そうだ。この点については、検討をおこなう。それは職員室からの中間点が前入り口から6歩のところだということを考慮する必要があるだろう。教室の前後の入り口幅は9歩なので、6歩というのは、教室(教壇を除く空間)を2:1に分割するラインである。このラインを教室に延長したものが、職員室学年団との等距離線である。2組生徒の座席が教壇を除く教室空間に、均質に分布すると仮定すると、40人を2:1に分けるように圏域が形成されるはずである。すなわち、東回りには13.3人、西回りには26.6人程度に分かれるはずで。これが理論値である(この場合、調査の精度上、少数以下第一位に意味はないので、13人、27人と考える)。
ところが、表に示したように、2組生徒への調査の結果は、逆の人数を示している。やはりここには、距離感覚を狂わせる要因、遠回りしてでも得られる正の要因、または近道に存在する負の要因があると考察できる。
自然科学においては、理論の構築やその精緻化にそれなりの意味があるが、人間を扱う社会科学(人文科学)においては、考慮すべき条件が多すぎで、理論化が困難である。そこでこのような単純モデルと現実との残差を追究することが重要になってくる(このことは前号で前述した)。
そこで、学年の先生に尋ねると、
・中庭を通して、HR教室が見えるので、感覚的に狂うのではないか。
・行きと帰りで一周する事が多い。近さは意識していない。
・3年生の学年団になれば、座席位置の関係で、必ず東回りになるのだが…
などの意見がみられた。
筆者の意見としては、生徒との対面接触を避ける。あるいは混んでいる廊下を避けるため、できるだけHR教室前を通らないのではないかと考えと、上記意見にあるように、職員室の窓から2組が東側に見えているので、そちらに歩いてしまう、という意見に賛成である。
さて、この研究に何の意味があるのか、という問題である。最初に以下の問題を考えて見ましょう。
「長い砂浜の海水浴場があります。浜辺には海水浴客が均質(ランダム)に存在しています。その浜辺にアイスクリーム屋さんが屋台を出しました。どこにお店を出すのがいいかと聞かれれば、中央部だと答えるでしょう。
海岸
●
アイスクリームの屋台
この部分はワープロで作ったのでうまく反映されていません(多謝)
さて、この浜辺にもう一軒のアイスクリーム屋さんがやって来て、お店を出そうとしています。どこに出すのが良いのでしょうか。またこの立地戦争は、最終的にどうなるのでしょう(最終的に2軒のお店はどこに立地しますか)。二店の商品種類、品質、値段は同じです。ハンサムなお兄さんが店員だとか、オマケなどの非価格競争はないものとします。
・K先生:3組は東回りと西回りで半々
・K先生・F先生・M先生:2組は東回り、3組は西回り
・T先生・T先生:3組は東回り、4組は西回り
・O先生:1組は東回り、2組は西回り
他の先生は、2組には行かないと解答。
では、2組生徒はどうなのだろうか。教室から職員室の学年の先生に会いに行くとき、どちら回りで行くかを尋ねた。その結果、西回りが12人、東回りが20人、行かないが1人となり、職員と同様の傾向を示している。つまり遠回りをする生徒が多そうだ。この点については、検討をおこなう。それは職員室からの中間点が前入り口から6歩のところだということを考慮する必要があるだろう。教室の前後の入り口幅は9歩なので、6歩というのは、教室(教壇を除く空間)を2:1に分割するラインである。このラインを教室に延長したものが、職員室学年団との等距離線である。2組生徒の座席が教壇を除く教室空間に、均質に分布すると仮定すると、40人を2:1に分けるように圏域が形成されるはずである。すなわち、東回りには13.3人、西回りには26.6人程度に分かれるはずで。これが理論値である(この場合、調査の精度上、少数以下第一位に意味はないので、13人、27人と考える)。
ところが、表に示したように、2組生徒への調査の結果は、逆の人数を示している。やはりここには、距離感覚を狂わせる要因、遠回りしてでも得られる正の要因、または近道に存在する負の要因があると考察できる。
自然科学においては、理論の構築やその精緻化にそれなりの意味があるが、人間を扱う社会科学(人文科学)においては、考慮すべき条件が多すぎで、理論化が困難である。そこでこのような単純モデルと現実との残差を追究することが重要になってくる(このことは前号で前述した)。
そこで、学年の先生に尋ねると、
・中庭を通して、HR教室が見えるので、感覚的に狂うのではないか。
・行きと帰りで一周する事が多い。近さは意識していない。
・3年生の学年団になれば、座席位置の関係で、必ず東回りになるのだが…
などの意見がみられた。
筆者の意見としては、生徒との対面接触を避ける。あるいは混んでいる廊下を避けるため、できるだけHR教室前を通らないのではないかと考えと、上記意見にあるように、職員室の窓から2組が東側に見えているので、そちらに歩いてしまう、という意見に賛成である。
さて、この研究に何の意味があるのか、という問題である。最初に以下の問題を考えて見ましょう。
「長い砂浜の海水浴場があります。浜辺には海水浴客が均質(ランダム)に存在しています。その浜辺にアイスクリーム屋さんが屋台を出しました。どこにお店を出すのがいいかと聞かれれば、中央部だと答えるでしょう。
海岸
●
アイスクリームの屋台
この部分はワープロで作ったのでうまく反映されていません(多謝)
さて、この浜辺にもう一軒のアイスクリーム屋さんがやって来て、お店を出そうとしています。どこに出すのが良いのでしょうか。またこの立地戦争は、最終的にどうなるのでしょう(最終的に2軒のお店はどこに立地しますか)。二店の商品種類、品質、値段は同じです。ハンサムなお兄さんが店員だとか、オマケなどの非価格競争はないものとします。
ホグワーツでは何故クリスマスを祝うのか その5
これまでの考察では、中世キリスト教の浸透とともに、在来のアニミズムや民間信仰を駆逐し、最終的には魔女狩りのような形で弾圧をしていった過程を明らかにした。ではなぜ、魔法使いたちが弾圧者側のキリスト教の祭りであるクリスマスを祝うのかという問題を論じたい。
クリスマス(Christmas)とは、キリストのミサの意味である。つまりイエスの誕生日であるかのように言われるが、事実はそうではない。新約聖書では誕生日を特定する記述はない。歴史学ではイエスの生誕は夏であろうと推定する説も見られる。
クリスマスは遅くとも345年には西方教会でおこなわれていたようだ。345年の少し前に成立だとしても、イエスの時代からかなり離れている。
ではなぜ12月25日なのか、その前後の祭りを調べると、正月とか冬至とかがみられる。実は冬至の祭りがもともとあったと考えるのが、分かりやすいだろう。古代の人々は太陽高度がどんどん下がっていくことに恐怖を感じていた。そこで、冬至の日に太陽の復活を祈る祭りをしたと考えられる。農耕が発生すると太陽信仰が重要になった。日本でも西洋でも同様である。ちょっと専門的になるが(世界史Bでは習うのだが)、古代ローマでは太陽を信仰するミトラ信仰が盛んだった。キリスト教の普及過程において、太陽信仰を取り込んでいった(転用した)可能性が高い。
19世紀イギリスの文筆家ロバート・チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされているのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはずれて、どんちゃん騒ぎの夜になっている、と指摘している。。若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭がおかれ、陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った、という。http://web.mac.com/saito_sy/
さらにさかのぼると、かつて古代ブリテン島(現在のイギリス)に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じていた(当時の大晦日は冬至)。
イギリス人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきた。教会も古いしきたりをあえて追放しなかった。この方がはるかに効率的にキリスト教を伝道することができたからである。ちなみに、現在のキリスト教は異教との融合を認めていない。このことは魔女狩りの項目で述べたとおりである。
同様のものに、万聖節がある。その前夜がハロウィーンで、これも本来ケルト人の祭りと言われている。しかしこれについて論じる紙面がない。
といわけで、かなり大急ぎでクリスマスの起源を探ってきました。結論です。本来ヨーロッパには太陽信仰がみられ、冬至の頃に祭りがあったと考えられます。1年の始まりも冬至にあったのではないでしょうか。それをキリスト教が取り込んでいったわけです。ホグワーツでクリスマスを祝うのは、キリストの生誕を祝っているわけではなく、ケルト本来が持っている習俗を維持しているに過ぎないと考えるべきなのでしょう。この冬至のお祭りを奪って、クリスマスなどと勝手な名前を付けたのはキリスト教側だという訳です。
中央ヨーロッパでは、中世にキリスト教が浸透し、このような在来の風習は表面的には姿を消しました。、しかしその深層にこのような信仰は居座り続けていたため、教会側はその対応に苦慮することになります。その過程については前回までに述べたとおりです。
梶村先生の最終講義で、中世ヨーロッパの賤民の誕生について話されましたが、実はこのこととつながることになります。
このように考えると、なぜ中世の中部ヨーロッパは、こんなに苦労してキリスト教を受け入れたのかという疑問が生じます。ニーチェが「キリスト教は邪教です」で指摘するように、キリスト教的世界観は、古代のギリシャ的多神教的世界観と全く異なるため、その受け入れのため、1000年以上も思索で苦しむことになります。ヨーロッパがやっとキリスト教を自分のものとできたとき、近代が始まるのだと思いますが…。なぜそこまでして受け入れたのかという疑問はぬぐえません。
クリスマス(Christmas)とは、キリストのミサの意味である。つまりイエスの誕生日であるかのように言われるが、事実はそうではない。新約聖書では誕生日を特定する記述はない。歴史学ではイエスの生誕は夏であろうと推定する説も見られる。
クリスマスは遅くとも345年には西方教会でおこなわれていたようだ。345年の少し前に成立だとしても、イエスの時代からかなり離れている。
ではなぜ12月25日なのか、その前後の祭りを調べると、正月とか冬至とかがみられる。実は冬至の祭りがもともとあったと考えるのが、分かりやすいだろう。古代の人々は太陽高度がどんどん下がっていくことに恐怖を感じていた。そこで、冬至の日に太陽の復活を祈る祭りをしたと考えられる。農耕が発生すると太陽信仰が重要になった。日本でも西洋でも同様である。ちょっと専門的になるが(世界史Bでは習うのだが)、古代ローマでは太陽を信仰するミトラ信仰が盛んだった。キリスト教の普及過程において、太陽信仰を取り込んでいった(転用した)可能性が高い。
19世紀イギリスの文筆家ロバート・チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされているのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはずれて、どんちゃん騒ぎの夜になっている、と指摘している。。若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭がおかれ、陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った、という。http://web.mac.com/saito_sy/
さらにさかのぼると、かつて古代ブリテン島(現在のイギリス)に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じていた(当時の大晦日は冬至)。
イギリス人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきた。教会も古いしきたりをあえて追放しなかった。この方がはるかに効率的にキリスト教を伝道することができたからである。ちなみに、現在のキリスト教は異教との融合を認めていない。このことは魔女狩りの項目で述べたとおりである。
同様のものに、万聖節がある。その前夜がハロウィーンで、これも本来ケルト人の祭りと言われている。しかしこれについて論じる紙面がない。
といわけで、かなり大急ぎでクリスマスの起源を探ってきました。結論です。本来ヨーロッパには太陽信仰がみられ、冬至の頃に祭りがあったと考えられます。1年の始まりも冬至にあったのではないでしょうか。それをキリスト教が取り込んでいったわけです。ホグワーツでクリスマスを祝うのは、キリストの生誕を祝っているわけではなく、ケルト本来が持っている習俗を維持しているに過ぎないと考えるべきなのでしょう。この冬至のお祭りを奪って、クリスマスなどと勝手な名前を付けたのはキリスト教側だという訳です。
中央ヨーロッパでは、中世にキリスト教が浸透し、このような在来の風習は表面的には姿を消しました。、しかしその深層にこのような信仰は居座り続けていたため、教会側はその対応に苦慮することになります。その過程については前回までに述べたとおりです。
梶村先生の最終講義で、中世ヨーロッパの賤民の誕生について話されましたが、実はこのこととつながることになります。
このように考えると、なぜ中世の中部ヨーロッパは、こんなに苦労してキリスト教を受け入れたのかという疑問が生じます。ニーチェが「キリスト教は邪教です」で指摘するように、キリスト教的世界観は、古代のギリシャ的多神教的世界観と全く異なるため、その受け入れのため、1000年以上も思索で苦しむことになります。ヨーロッパがやっとキリスト教を自分のものとできたとき、近代が始まるのだと思いますが…。なぜそこまでして受け入れたのかという疑問はぬぐえません。
ホグワーツでは何故クリスマスを祝うのか その4
中世キリスト世界の展開
前段で、1300年頃を境として、教会の魔女に対する態度が厳しくなったことが明らかになった。この理由を考えるにはキリスト教がヨーロッパ社会に根付いていった過程を検討する必要があろう。本節では阿部欣也の学説に依拠しながら、この点について検討する。
阿部(1974)は、「ハーメルンの笛吹男」の伝説を検討しながら、中世ヨーロッパにおけるキリスト教世界の浸透について論じている。阿部は時の断面を復原し、その復原した時間面の関係を考察するという方法で、精緻な検討をおこなった。このハーメルンの笛吹男の伝説は1284年とされており、まさしく森島が1300年頃を境として、と述べた時期と一致している。
詳細な検討は省略して、要点を述べると次のようになるだろう(図面省略)。
キリスト教が流入する以前の中部ヨーロッパ世界では、自然崇拝を基本とする社会であったと考えられる。多神教の世界である(Ⅰ)。キリスト教は地中海世界から北上し中部ヨーロッパに流入する。最初にこれを受け入れるのは支配者階級である(Ⅱ)。支配者階級はこれを支配の手段として重用する。この宗教は中世農村のミクロコスモスへと徐々に浸透する。この時期、キリスト教を信仰しながらも、民間信仰も捨てられてはいなかった(Ⅲ)。キリスト教と在来の宗教徒の対立について、阿部は「キリスト教会は祭の奥底にひそむ古代的・異教徒的伝統を根絶やしにしようと努力していたから、そのためのあらゆる努力を惜しまなかった」と述べている。ハーメルンの笛吹男の伝説はこの時期、徐々にキリスト教的解釈によって変容していくのである。
さて、教会の力を高めるために、異教徒的(在来の)伝統に対して、とった手段は、それを取り込んでいくか、制限するか、弾圧するかである。多くの祭りは制限されつつ取り込まれていった。夏至の祭りがヨハネ祭に変化するのがその例だが、詳細は阿部氏の著作に譲りたい。為政者により下層民たちも徐々にキリスト教化されるのだが、弾圧されたものとして、社会の枠組みにとらわれない漂白民・放浪者(遍歴楽師)たちが残される(Ⅳ)。
魔女狩りがこの後に時期に激化したことを考慮に入れると、魔女狩りはキリスト教化の最後の段階であったことが分かる。簡単に言えば、為政者はキリスト教を受け入れなかった人々に、弾圧を加え、これを一掃したと解釈できる。事実魔女狩りの後、ヨーロッパ社会は一神教社会となっていった。
文献
・阿部謹也(1974)「ハーメルンの笛吹男」ちくま文庫
・阿部謹也(2006)「近代化と世間」朝日新書
・F・W・ニーチェ「キリスト教は邪教です 現代語訳『アンチクリスト』講談社+α文庫」
これで、大体中世キリスト教については、概略理解できたと思う。本題は、ホグワーツでは何故クリスマスを祝うかである。そのためには、次にクリスマスとは何か、特にキリスト教以前におけるクリスマスの意味を考えなくてはならないだろう。
前段で、1300年頃を境として、教会の魔女に対する態度が厳しくなったことが明らかになった。この理由を考えるにはキリスト教がヨーロッパ社会に根付いていった過程を検討する必要があろう。本節では阿部欣也の学説に依拠しながら、この点について検討する。
阿部(1974)は、「ハーメルンの笛吹男」の伝説を検討しながら、中世ヨーロッパにおけるキリスト教世界の浸透について論じている。阿部は時の断面を復原し、その復原した時間面の関係を考察するという方法で、精緻な検討をおこなった。このハーメルンの笛吹男の伝説は1284年とされており、まさしく森島が1300年頃を境として、と述べた時期と一致している。
詳細な検討は省略して、要点を述べると次のようになるだろう(図面省略)。
キリスト教が流入する以前の中部ヨーロッパ世界では、自然崇拝を基本とする社会であったと考えられる。多神教の世界である(Ⅰ)。キリスト教は地中海世界から北上し中部ヨーロッパに流入する。最初にこれを受け入れるのは支配者階級である(Ⅱ)。支配者階級はこれを支配の手段として重用する。この宗教は中世農村のミクロコスモスへと徐々に浸透する。この時期、キリスト教を信仰しながらも、民間信仰も捨てられてはいなかった(Ⅲ)。キリスト教と在来の宗教徒の対立について、阿部は「キリスト教会は祭の奥底にひそむ古代的・異教徒的伝統を根絶やしにしようと努力していたから、そのためのあらゆる努力を惜しまなかった」と述べている。ハーメルンの笛吹男の伝説はこの時期、徐々にキリスト教的解釈によって変容していくのである。
さて、教会の力を高めるために、異教徒的(在来の)伝統に対して、とった手段は、それを取り込んでいくか、制限するか、弾圧するかである。多くの祭りは制限されつつ取り込まれていった。夏至の祭りがヨハネ祭に変化するのがその例だが、詳細は阿部氏の著作に譲りたい。為政者により下層民たちも徐々にキリスト教化されるのだが、弾圧されたものとして、社会の枠組みにとらわれない漂白民・放浪者(遍歴楽師)たちが残される(Ⅳ)。
魔女狩りがこの後に時期に激化したことを考慮に入れると、魔女狩りはキリスト教化の最後の段階であったことが分かる。簡単に言えば、為政者はキリスト教を受け入れなかった人々に、弾圧を加え、これを一掃したと解釈できる。事実魔女狩りの後、ヨーロッパ社会は一神教社会となっていった。
文献
・阿部謹也(1974)「ハーメルンの笛吹男」ちくま文庫
・阿部謹也(2006)「近代化と世間」朝日新書
・F・W・ニーチェ「キリスト教は邪教です 現代語訳『アンチクリスト』講談社+α文庫」
これで、大体中世キリスト教については、概略理解できたと思う。本題は、ホグワーツでは何故クリスマスを祝うかである。そのためには、次にクリスマスとは何か、特にキリスト教以前におけるクリスマスの意味を考えなくてはならないだろう。
ホグワーツでは何故クリスマスを祝うのか その3
(b)魔女狩りとハリーポッターの世界
前述のように、キリスト教世界における魔女観は1300頃を境として大きく変わっている。森島は1300年以前を平穏な「古い魔女」の時代、それ以降を険悪な「新しい魔女の時代」と呼んでいる。これがハリーポッターの世界観とどう関わるかが、問題となる。
ハリーポッター世界の歴史によれば、最も古い記録は、紀元前382年オリバンダーの店(杖の店だが)創業であり、1000年までには993年頃のホグワーツ創設しか記録されていない。1296年マンティコアが誰かを傷つけ、裁判にかけられた記録が3番目に古い記録で、これ以後様々な記録が散見される。14世紀に2件、15世紀2件、17世紀3件となっている。こうしたことから、ハリーポッターの世界は、ホグワーツ校の創設から考えて、10世紀頃から徐々に始まり、12~13世紀頃に確立したとみるのが妥当である。これは森島の言う「新しい魔女の時代」の始まりと一致すると考えていいだろう。
しかしながら、マグルの世界をあれほど騒がせた魔女狩りに関する記述は、ハリーポッターの世界における歴史には、全く触れられていないのは解せないことである。魔女狩りの歴史は、ビンズ先生の魔法史とバーベッジ先生のマグル学との両者の狭間に位置したため、どちらかの科目においても触れられなかったのかもしれない。(未完)
前述のように、キリスト教世界における魔女観は1300頃を境として大きく変わっている。森島は1300年以前を平穏な「古い魔女」の時代、それ以降を険悪な「新しい魔女の時代」と呼んでいる。これがハリーポッターの世界観とどう関わるかが、問題となる。
ハリーポッター世界の歴史によれば、最も古い記録は、紀元前382年オリバンダーの店(杖の店だが)創業であり、1000年までには993年頃のホグワーツ創設しか記録されていない。1296年マンティコアが誰かを傷つけ、裁判にかけられた記録が3番目に古い記録で、これ以後様々な記録が散見される。14世紀に2件、15世紀2件、17世紀3件となっている。こうしたことから、ハリーポッターの世界は、ホグワーツ校の創設から考えて、10世紀頃から徐々に始まり、12~13世紀頃に確立したとみるのが妥当である。これは森島の言う「新しい魔女の時代」の始まりと一致すると考えていいだろう。
しかしながら、マグルの世界をあれほど騒がせた魔女狩りに関する記述は、ハリーポッターの世界における歴史には、全く触れられていないのは解せないことである。魔女狩りの歴史は、ビンズ先生の魔法史とバーベッジ先生のマグル学との両者の狭間に位置したため、どちらかの科目においても触れられなかったのかもしれない。(未完)
ホグワーツではなぜクリスマスを祝うのか その2
この記事は前年度のものですが、その1を書きながら、続きをアップしてなかったようです。
(3)キリスト教と魔法使い
キリスト教は唯一絶対の神を信仰する宗教であり、神以外の奇跡を認めていない。したがって当然魔法は認められないわけである。
ハリーポッターシリーズに関して、前ローマ教皇のヨハネパウロⅡ世は好意的だったといわれるが、ベネディクト現教皇は批判的だと言われている。キリスト教徒と魔法使いの関連については、もう少し歴史的に辿ってみる必要があるだろう。
(a)魔女狩りとキリスト教
ヨーロッパにおいて、魔女狩りが広くおこなわれたのは、15~17世紀のことである。魔女狩りからはカトリック教会が権勢を振るった中世ヨーロッパのイメージがありが、実はそうではない。ルネサンスの花開く時代のことである。最も激しかったのは1600年を中心とする100年間のことであった。付け加えるならば、魔女狩りの最も激しかったのはドイツであり、しかも宗教改革後の方が激しかった。またドイツに次ぐのはスコットランドである。こうしたことから、カトリックよりもプロテスタントの方が激しかったと言ってもいいかもしれない(カトリックの分布は地中海沿岸のラテン系民族、ポーランドやチェコなどの東ヨーロッパのスラブ系であるのに対し、プロテスタントはイギリス・北欧、ドイツなどのゲルマン系が中心である)。
森島(1970)によれば、12、13世紀頃までは魔女は、キリスト教は魔女に対してまだ安泰であったが、1300年頃を境として教会の態度がにわかに硬化すると指摘している。それまでの魔女は、いわば呪術師であり、それぞれの「犯行」に応じて量刑を求刑された。死刑になることはなかったと言われている。しかし、異端審問制が確立し、魔女の定義が「悪魔と同盟を結び、悪魔の助けを利用して不可思議をおこなうことに同意する者(1608『妖術論』)とされることによって、魔女は「異端者」に格上げされる。こうして、極刑(火焙り)とされることになっていった。
18世紀末に魔女裁判が終了するまでに、どの程度の人々が魔女として処刑されたかについては、諸説あるが30万人とする説から900万人とする説まで様々である。(未完)
参考:森島恒雄1970『魔女狩り』岩波新書
ここでいう魔女には男の魔女も含まれる。魔法使いと言うべきかもしれないが、通例に従い「魔女」としている。
(3)キリスト教と魔法使い
キリスト教は唯一絶対の神を信仰する宗教であり、神以外の奇跡を認めていない。したがって当然魔法は認められないわけである。
ハリーポッターシリーズに関して、前ローマ教皇のヨハネパウロⅡ世は好意的だったといわれるが、ベネディクト現教皇は批判的だと言われている。キリスト教徒と魔法使いの関連については、もう少し歴史的に辿ってみる必要があるだろう。
(a)魔女狩りとキリスト教
ヨーロッパにおいて、魔女狩りが広くおこなわれたのは、15~17世紀のことである。魔女狩りからはカトリック教会が権勢を振るった中世ヨーロッパのイメージがありが、実はそうではない。ルネサンスの花開く時代のことである。最も激しかったのは1600年を中心とする100年間のことであった。付け加えるならば、魔女狩りの最も激しかったのはドイツであり、しかも宗教改革後の方が激しかった。またドイツに次ぐのはスコットランドである。こうしたことから、カトリックよりもプロテスタントの方が激しかったと言ってもいいかもしれない(カトリックの分布は地中海沿岸のラテン系民族、ポーランドやチェコなどの東ヨーロッパのスラブ系であるのに対し、プロテスタントはイギリス・北欧、ドイツなどのゲルマン系が中心である)。
森島(1970)によれば、12、13世紀頃までは魔女は、キリスト教は魔女に対してまだ安泰であったが、1300年頃を境として教会の態度がにわかに硬化すると指摘している。それまでの魔女は、いわば呪術師であり、それぞれの「犯行」に応じて量刑を求刑された。死刑になることはなかったと言われている。しかし、異端審問制が確立し、魔女の定義が「悪魔と同盟を結び、悪魔の助けを利用して不可思議をおこなうことに同意する者(1608『妖術論』)とされることによって、魔女は「異端者」に格上げされる。こうして、極刑(火焙り)とされることになっていった。
18世紀末に魔女裁判が終了するまでに、どの程度の人々が魔女として処刑されたかについては、諸説あるが30万人とする説から900万人とする説まで様々である。(未完)
参考:森島恒雄1970『魔女狩り』岩波新書
ここでいう魔女には男の魔女も含まれる。魔法使いと言うべきかもしれないが、通例に従い「魔女」としている。
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