これまでの考察では、中世キリスト教の浸透とともに、在来のアニミズムや民間信仰を駆逐し、最終的には魔女狩りのような形で弾圧をしていった過程を明らかにした。ではなぜ、魔法使いたちが弾圧者側のキリスト教の祭りであるクリスマスを祝うのかという問題を論じたい。
クリスマス(Christmas)とは、キリストのミサの意味である。つまりイエスの誕生日であるかのように言われるが、事実はそうではない。新約聖書では誕生日を特定する記述はない。歴史学ではイエスの生誕は夏であろうと推定する説も見られる。
クリスマスは遅くとも345年には西方教会でおこなわれていたようだ。345年の少し前に成立だとしても、イエスの時代からかなり離れている。
ではなぜ12月25日なのか、その前後の祭りを調べると、正月とか冬至とかがみられる。実は冬至の祭りがもともとあったと考えるのが、分かりやすいだろう。古代の人々は太陽高度がどんどん下がっていくことに恐怖を感じていた。そこで、冬至の日に太陽の復活を祈る祭りをしたと考えられる。農耕が発生すると太陽信仰が重要になった。日本でも西洋でも同様である。ちょっと専門的になるが(世界史Bでは習うのだが)、古代ローマでは太陽を信仰するミトラ信仰が盛んだった。キリスト教の普及過程において、太陽信仰を取り込んでいった(転用した)可能性が高い。
19世紀イギリスの文筆家ロバート・チェインバーズの『The Book of Days』(邦訳『イギリス古事民俗誌』)は、キリスト教の祝祭日前夜は厳格には断食と懺悔の時とされているのに、万霊節前夜(ハロウィーン)やクリスマス・イブは本来の目的をはずれて、どんちゃん騒ぎの夜になっている、と指摘している。。若者は森へ出かけ、ヤドリギを採ってきた。開放された領主の屋敷に小作人や農奴らが押しかけて、無礼講になった。丸太がくべられた炉が燃え上がり、高座にはイノシシの頭がおかれ、陽気な仮面隊が大声でキャロルを歌った、という。http://web.mac.com/saito_sy/
さらにさかのぼると、かつて古代ブリテン島(現在のイギリス)に住むケルト人は、大晦日の晩に死霊が家々を訪ねてくる、と信じていた(当時の大晦日は冬至)。
イギリス人はキリスト教に改宗したあとも、従来の慣習を排除せず、守ってきた。教会も古いしきたりをあえて追放しなかった。この方がはるかに効率的にキリスト教を伝道することができたからである。ちなみに、現在のキリスト教は異教との融合を認めていない。このことは魔女狩りの項目で述べたとおりである。
同様のものに、万聖節がある。その前夜がハロウィーンで、これも本来ケルト人の祭りと言われている。しかしこれについて論じる紙面がない。
といわけで、かなり大急ぎでクリスマスの起源を探ってきました。結論です。本来ヨーロッパには太陽信仰がみられ、冬至の頃に祭りがあったと考えられます。1年の始まりも冬至にあったのではないでしょうか。それをキリスト教が取り込んでいったわけです。ホグワーツでクリスマスを祝うのは、キリストの生誕を祝っているわけではなく、ケルト本来が持っている習俗を維持しているに過ぎないと考えるべきなのでしょう。この冬至のお祭りを奪って、クリスマスなどと勝手な名前を付けたのはキリスト教側だという訳です。
中央ヨーロッパでは、中世にキリスト教が浸透し、このような在来の風習は表面的には姿を消しました。、しかしその深層にこのような信仰は居座り続けていたため、教会側はその対応に苦慮することになります。その過程については前回までに述べたとおりです。
梶村先生の最終講義で、中世ヨーロッパの賤民の誕生について話されましたが、実はこのこととつながることになります。
このように考えると、なぜ中世の中部ヨーロッパは、こんなに苦労してキリスト教を受け入れたのかという疑問が生じます。ニーチェが「キリスト教は邪教です」で指摘するように、キリスト教的世界観は、古代のギリシャ的多神教的世界観と全く異なるため、その受け入れのため、1000年以上も思索で苦しむことになります。ヨーロッパがやっとキリスト教を自分のものとできたとき、近代が始まるのだと思いますが…。なぜそこまでして受け入れたのかという疑問はぬぐえません。
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