2008年5月23日金曜日

人権HRの生徒感想を読んだ担任の感想についてのコメント

 過日クラス通信7号において、君たちの感想を読んだ感想を述べた。少し「謎かけ」的なところもあったので、少し真面目に担任の見解を述べておきたいところだが、私にはそのような力量はない。そこで山口大学人文学部の入試問題で誤魔化しておきたい。
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 文化や言語圏を問わず、生まれ落ちた赤ん坊が初めて覚える言葉は、自分の生存に直接かかわる基本語に決まっている。たとえばママ、パパ、マンマ……といった、両親や食べ物に対応する言葉。
 ところが最近の赤ん坊は、ちょっと様子が違うらしい。そういう基本語よりも先に、いきなり「パンパース」(オムツ)、「ヒップ」(エレキバン)、「マープ」(増毛法)といった商品名をしゃべり始めた赤ん坊の話を聞いたのは、ずいぶん前のことだ。つまり親よりもメディアに“刷り込み”された赤ん坊が、いきなり自分の生存と無関係の言葉をまっさきに学習してしまう時代なのだ。
 もちろんこれは特に象徴的なひとつのサンプルにすぎないのだけれど、すでに原始的な言語学習段階で、このような〈自己と言葉の乖離〉が始まっているという事実に、ぼくたちはもっと驚いてみてもよかった。それはつまり「言葉が肉体化されない」ということである。
  中略
 さて、そんな言語環境で育ってきた子どもたちが、いきなり「さあ、ありのままのあなたを自由な言葉で表現しましょう!」などと言われて、「はい、そうします」とスラスラ自己表現できたりするものだろうか? 最近は入試問題に〈自由作文〉とやらを出題する学校が増えてきた。「どれ、今度は個性と創造力とやらを評価してやろうじゃないの」ってぇ魂胆なのだろうが、そうは問屋が卸さない。子どもたちは、それが「出題」である限り、当然のように出題者の意図を見透かして、自分のデータベースから「模範解答」を引っ張り出してくる。いわゆる〈良い子の作文〉を見事に演じきって見せるのだ。
 たとえば出題者は、100%の自由作文では「採点」が面倒なので、簡単なテーマを与える。〈雲〉とか〈水〉とかの、まるでお題噺のような、すると大半の子供たちが、雲の種類や発生過程、水の循環や生成過程などに関するありったけの知識を駆使した「論文」を書いてしまうのだという。出題者は面食らったのだが、「不正解」にするわけにもいかない。で、結局、文章としての体裁が整っていて誤字・脱字さえなければ、合格点をつけるしかなかったとか。
 このジョークのような実話は、いつか国語作文研究所の宮川俊彦さんから聞いた。
 もちろん笑いごとではない。そんなプロセスを経て、彼ら〈いや、もはや他人事ではない〉は、仮想の言語空間の陰に「けっして表現されない自分の言葉」を隠蔽してしまう。ぼくたちが、たとえば天下国家を語る正論や一般論ならスラスラ論じたり書いたりできたりするのも、実は「しょせんは自分に関係ない」と思っているからなのかもしれない。すべては〈肚の外〉の話なのだ。
 これも宮川さんに聞いた体験談なのだが、ある日の作文教室で、彼はこの国の学校ではお目にかかれない作文課題を、子供たちに与えた。
 《日本と韓国がもっと仲良くするためには、どうすればいいのか》というテーマだ。ちょっとあなたも考えてみてほしい。
 大方の子供たちが書いた作文は、たとえばこんな内容だったらしい。
 「政治家がもっと誠意をもって外交すればいい」
 「天皇が韓国に過去の侵略をちゃんと謝ればいい」
 「経済協力や貿易をもっと盛んにすればいい」
 「日刊平和条約を結べばいい」
 ……とまぁ、国語や社会の授業なら模範解答になりそうな立派な正論の数々だ。
 でも彼が一番高く評価したのは、そのなかでも一見幼稚でたどたどしい、こんな内容の作文だった- 「日本人と韓国人がお互いにひとりひとりともだちを増やしていけばいい」
 もちろんこれは正解のある試験じゃないので、その子だけ褒められて他の子は叱られるというようなことはなかった。
 ただ問題は、それを自分の手の届く〈現実〉としてとらえることができるか-ということだ。どこかで聞いたような「自分と関係ないフィクションの問題」ではなく。そして、これは子供たちよりも、むしろ大人たちの問題なのだ。子供たちは大人がつくりあげた情報環境に必死に適用しようとしただけだ。もちろん、この子の作文もバリエーションにすぎない、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 殺人や自殺といった子供の事件に、しばしば作文がからんでいるのは、きっと偶然じゃないのだろう。それは仮想の言語環境と彼らの〈肚の中〉とのせめぎ合いが、いよいよ限界に達した臨界点で噴き出した、土壇場の自己表現なのかもしれない。彼らもまちがいなく〈肚の中〉から発する言葉を渇望しているのだ。
 山崎浩一『危険な文章講座』ちくま書房、1998。一部改変、中略あり

●問
「しょせんは自分に関係ない」仮想の問題でなく、まさに自分の問題としてあなたが切実にうけとめるのは、たとえばどのようなことですか。自らのテーマを立て、そのテーマについて考えられるところを、「〈肚の中〉から発する言葉」によって、1000字程度で述べなさい。
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担任のコメント: これだけ書けば(ワープロなので打てば)、担任の言いたいことは分かってもらえるでしょう。ちょっと長いので、読むのを拒否した人もいるかもしれませんねぇ。
 それはさておき、いやー山口大学人文学部、頑張ってますねぇー……。高校生というものは、問に対して正解となるストライクゾーンを想定し、それから玉(答)を投げ込んでくる。それが受験では普通の対応です(それが全ての日常生活で正しい方法とは限らないのだが)。しかし、そのストライクゾーンを設定させまいとする山口大学人文学部。この勝負、どうなったか結果を見てみたい気がする。

(10号)
現在、考査期間なので、このクラス通信はテスト後(5月末)に発行予定です。

文化部発表会の感想 

口頭でも言いましたが、なんだか私の高校生時代の文化部発表会を見ているような気分でした。私の母校でも文化部発表会と呼んでいて、文化部のステージ発表と展示が中心でした。数十年前のことです。2年に1度一般公開をしていました。その後、1980年代になると文化部活動は衰退し、多くの学校では文化発表会が成り立ちにくくなりました。文化部の力だけで、これだけの発表が維持できると言うことはすごいことだと思っています。
 ちなみに私は天文班(母校では文化部は部ではなく班と呼んでいました)で、太陽黒点観測の係をしていました。流星観測も大分やりましたが、懐かしい思い出です。

●経費削減のため、発行回数を減らし、裏表印刷にします。
(9号)

ミッション 高瀬舟

担任のコメント
4組の生徒の進路希望をみると、医学、獣医学、看護系それに薬学、医療系、生命科学等をあげる生徒がかなりいることが判明しました。そこで、「高瀬舟」をLHRで取り上げたいと考えました。
 森鴎外(鴎は本来異体字です。本来の字はこのパソコンでは印刷できません)は大正5年にこの短編を書いています。
 彼の職業は軍医ですから、一般の人とは異なり死や人体について深く考察できる環境であったと推察できます。しかしながら、安楽死というテーマを取り上げた先見性を感じずにはいられません。
 生徒の感想を集計した結果、安楽死を認める立場29名、認めない9名、その他1名でした。これまでの生徒の感想と比較すると、安楽死を認める立場が増加しているような気がします。安楽死を認めると言っても、様々な意見がありますが、論点として、
 ①対象が自分本人なのか、親しい人なのか、それとも赤の他人なのか、によって意見も変わってくるのではないでしょうか。
 ②対象となる人が安楽死の意思表明をしている場合としていない場合ではどう考えればいいのでしょうか。
 ③安楽死を認める意見の場合、誰が同意すれば認められるのでしょうか、本人それとも親族でもOKでしょうか、
 などなど、議論の尽きぬところです。
 ところで近代における人権の歴史は、人権概念の拡大の歴史と言ってよいかもしれません。市民革命期には自由権や平等権が主張されました。20世紀にはいると社会権が登場しました。近年では環境権やプライバシー権などが「新しい人権」として確立されようとしています。 また、近代初期には人権の適用範囲は男性だけでしたが、女性にも拡大してきました。それと同時に医療技術の進展に伴って、人間の一生においても人権が拡大しつつあります。まず人権は大人だけでなく子供にもあることが主張されました。未熟児にも人権が存在するといってもいいかもしれません。人工中絶は22週未満です。
 終末医療が注目されるのも、人権概念が死の直前にもあると考えられるからでしょう。そればかりではなく「尊厳死」は死の瞬間にも人権があると言うことでしょうか。さらには散骨問題(自分の遺骨を海に撒くなど、どう処理するか)も死後の人権主張なのかもしれません。担任の私見としては、安楽死もそうした文脈で理解するべきことなのかなと愚考します。
(9号)
クラス独自のHRで、「高瀬舟」の読書HRを行いました。安楽死について、意見を求めミニ討論を行いました。賛否両論をクラス通信に掲載しましたが、今回はそのまとめです。

嘆願書

●このようなもの(席替えについての嘆願書)が、9日担任のもとに提出されました。
 うーむ…、嘆願書と契約書を混同しているようだが…、高校生だし…まあしょうがないよね。
 詳細は作成者と相談してから、口頭にてお返事します。


以下、画像ファイルより、署名欄等を除き,抜粋。通信では画像ファイルである。

一、この席替えは生徒の気分転換、新しい友との交流を目的としておこなわれる。
二、席替えは各月のはじめに定期的におこなわれる。
三、二にて定めた条項は過半数の反対により、方針を変更できる。
四、この嘆願書は生徒、教師の両者の意見を尊重するために、作成される。
五、おこなわれた席替えについて、不満があるものは特別な理由がある場合を除くときは、その場にとどまることができる。
六、五は両者の意見により、調整できる。
七、席替えはHR等で定められた方法で公正に行わなければならない。
八、七の方法に不正がある場合は、その席替えは無効とする。
九、これが受領されると同時にこの事項は効力を発す。生徒37名の意志をここに示す。

人権HR感想を読んでの担任の感想

 ある大学生が中学校へ教育実習に行き、ある授業(人権の授業ではない)をしたそうです。その実習生は授業の流れの中で、同和問題に触れたのですが、その流れを切ることができなってしまいました。そこで実習生は「部落差別はいけません」と言って同和問題に区切りをつけ、元の授業の流れに戻ったそうです。
 後日、中学校の先生から大学に対して、「大学ではどんな人権教育をしているのですか」という苦情がきました。なぜだか分かりますか?君たちの感想を読んで、そのことを思い出しました。

補足:このコメントの前に生徒全員の一言コメントを掲載しています。
(7号)

席替え

 なぜ席替えをするのか? 何も考えないで、惰性で席替えするのは嫌なんです。担任は席替えをしなくても、ちっとも困りません。
 なぜ席替えをするのか考えて下さい。理由は一つや2つではないはずです。皆さんがよく考えることができたら、席替えをしましょう。誰がどうやってみんなの考えをとりまとめるかは、任せます。
 ついでにいうと、教師は権力を持っています。権力に対して、自分達の要望を通すときにはどうすればいいのでしょうか。
(6号)
補足:生徒から、席替えをして欲しいという要望が出されました。それに対するコメントです。

2008年5月18日日曜日

クラス通信の名前が決まりました(決めました) 


上記の通りです。??かもしれませんが、まあいいではありませんか。誰からも通信名の応募がなかったので(無関心?)、独断で決めました。 最初の記号はインテグラル(integral)です。数式はとりあえず、数学Ⅱの範囲内でおさめています。2年生の後期になれば、数式の意味を理解し、担任が言わんとするところを汲み取ってもらえるものと信じています。 EFFORT関数などというものは存在しないとか、等式が成立するのか、など細かなことは言わないようお願いします。数学の文法に照らして正しい表現方法かどうかは、勿論自信がありません。ユーモアと解して下さい。一応、日本語の読み方をつけておきましょう(K先生に聞きました)。「インテグラル、0から無限大、Effortdx(そのまま読みます)、イコールSuccess」です。 最近、2000本安打を達成した阪神の金本選手の言葉で「練習は嘘をつかない」というのがありました。日本語訳はそれでもいいのですが、こででは「学習は嘘をつかない」ぐらいでしょうか。
(5号)

2008年5月7日水曜日

納得すること

 こんな実験をしてみましょう。小説を3冊ほど用意します。シリーズものがいいです。3冊で一つの続き物になっている本がいいです。もし、それがなければとりあえず漫画本でも構いません。
 通常は前から順に読んでいきます。1巻目が終われば2巻目に取りかかるのですが、ちょっと読み方を変えてみます。1巻目の1ページ目を読んだら、2巻目の1ページ目を読みます。続いて3巻目の1ページ目を読みます。今度は1巻目に戻って2ページ目、2巻目の2ページ目……というように、各巻の同じページ数のところを順番に読んでいきます。3つの巻を最初から、同時平行で読み進んでいくんでいくわけですね。
 さて、そうすると話の流れはさっぱり分かりません。おそらくちんぷんかんぷんです。しかし、それでも我慢して読んでいきましょう。我慢しつづけていると、あるところ(おそらく8割程度読んだ頃ぐらい?)から突然わかり出します。その理解の仕方は劇的です。 一般に小説を読むときは、時間軸に沿って直線的(一次方程式)に理解すると思われます。ところが上のやり方だと、直線的とは言えません。少しずつではなく、全体のフレームが一気に分かるというイメージですね。
 人間が物事を理解するとき、突然理解するということがありますね。「悟る」といった方がよいのかもしれません。手話では、右手を胸に当てて、下に動かしますが、納得したとか胸のつかえが取れた、というような感覚です。上記の実験はそれを人工的に味わおうとするのが目的です。 さて、勉強する喜びもそんな感覚ではないかと思うのです。この喜びは機械的作業学習や、無意味暗記、やらされている勉強をしている時には得られません。
 社会科教員として、次のようなことを感じています。社会科は暗記科目だと思っている生徒が多いのです。確かに概念として、用語を知っていなければ現象は説明できません。ですからある程度の概念(用語)の暗記は必要です。しかし、社会科に限らず学習の目的は用語の理解にとどまらないことは当然です。ある分野の全体フレーム(全体構造)の理解や、原理・因果律(原因と結果)の修得にあると思います。そのためには、しんどくてもコツコツと勉強を続けるほかありません。すると時々、「あーそうなのか」と胸のつかえが落ちました…というようなことが出てきます。それが学習の喜びではないかと考えています。 1年に1度くらいは、「あーそうだったのか」と言われる授業を目指したいものです。そのためには、機械的な暗記学習だけでは不可能です(覚えなくていいということではありませんが)。探求的学習も必要です(このことは後日)。
(4号)

ルーチンスの水がめ問題 解説

 さて問題は解けたでしょうか。9は少し手こずったかもしれませんが、後は楽だったのではないでしょうか。式は9がD=B-A-11Cで、残りの問題はD=B-A-2Cとなっています。これが普通の人の解答です。
 実は問題6以降は、2つの水がめを使うだけで、くみ出せるようになっています。問題6はD=B-7Cです。しかし、問題7と9はD=A-C、問題8と10はD=A+Cで答えが出ます。6を水がめを3つから2つにしたところで、作業が本当に楽になるかどうかは微妙なところです。しかし問題7以降は、2つの水がめにした方が明らかに楽です。
 しかし、問題1から6まで、1つのやり方(D=B-A-2C)でうまくいった人は、なかなか方法を変えることができません。実際やってみていかがだったでしょうか。問6で、すぐに気付いた人はまれに見る思考の柔軟さの持ち主です。これが有名なルーチンスの水がめ問題といわれるものですです(引用:『ごまかし勉強 下』 藤澤伸介著)。ちなみに、友人のある数学の先生は問題6から2つの解答が頭に浮かんだそうです(素晴らしい)。
 以上の実験と説明から、「うまくいった体験」は強烈で印象が持続することがわかります。最近、生徒と面談をして感じる事は、「学習において中学校までの成功体験が、高校に入ってからも持続しているのではないか」ということだ。具体的に述べると、高校に入り勉強量・授業進度・学習の目的などの環境が変わったにもかかわらず、「中学校の時は日常的には宿題だけをしていて十分だった」とか、「テスト前勉強でそこそこ点が取れた」という成功体験があると、その成功体験によって勉強法を変える事が出来にくい、ということである。 ここまで述べれば、私が何を言いたいかは察しがつくでしょう。正しい勉強法でごまかさないで学んで欲しいということです。では、正しい勉強法とは何か、これについては、徐々に考えていきたいと思います。面談をしていると、「今、勉強法を模索しています」とう生徒が結構います。是非、考えてみて下さい。

ルーチンスの水がめ問題 

 次の表を見て下さい。これはルーチンスの水がめ問題と呼ばれているものです(Luchins,1942)。
<課題>3つの大きさの異なる水瓶(A~C)を用いて、必要な量の水を得るにはどうしたらよいでしょうか。
 問題1は、A欄の29リットルの水がめと、B欄の3リットルの水がめを用いてD欄の20リットルを汲み出すという問題です。表の横に計算式を書いてみましょう。問2はどうでしょうか。以下、表の横に計算式もすべてメモしながら、面倒がらずに最後までやってみて下さい。驚くべきことが発見されるかもしれません。
 解答は次号とします(ということは、近々3号を出さなくてはならない?)。
│問│使用する水瓶の容積(ℓ)│くみ出す量(ℓ) │ 解答(計算式) │
│題│ A   B   C │  D │
│1 │ 29  3    20 │   A-3B │
│2 │ 21  127  3   │ 100
│3 │ 14 163 25 │ 99
│4 │ 18 43 10 │ 5
│5 │ 9 42 6 │ 21
│6 │ 20 59 4 │ 31
│7 │ 23 49 3 │ 20
│8 │ 15 39 3 │ 18
│9 │ 28 86 3 │ 25
│10│18 48 4 │ 22
│11 │ 14 36 8 │ 6              表が崩れてしまいました、多謝!

無遅刻・無欠席

 今のところ、4組は無遅刻・無欠席である(15日現在)。これはとても大事なことだと思う。
 昔々、京都の某進学校R高校で講師をしていた。クラスの半分ぐらいが京都大学に行くような、ある2年理系クラスのクラス目標は、「遅刻・欠席をしない」であった。私は、「へー、そうなんだ」と思ったことを思い出した。勉強に向かう基本は、学校に目が向いていることであるし、また日頃の積み重ねが大事だとも思う。それは、私立の超進学校といえども、同じことである。
 さて姫路の市立某H高校のことである。1年生のあるクラスは、一学期間、無遅刻・無欠席を続けたらしい。それを校長先生が7月の終業式で全校性に紹介した。するとそのクラスでは欠席ができなくなって、みんな必死で無遅刻・無欠席を続けたようだ。冬になって、発熱があっても出てきて、昼休みで早退する生徒も出たほどで(早退であって、欠席ではない)ある。きっと「自分が記録を止める訳にはいかない」という意識が働くのであろう。 とうとう一年間、そのクラスは無遅刻・無欠席を通したそうだ。素晴らしいことである。2年生になって、各クラスに分散した生徒は、その後無遅刻・無欠席を続けたのか。それは君たちの予想通りである。すぐに欠席する生徒が出てしまった。これはつまり、クラスの力(集団の教育力)というものが存在することを示している。学校は塾や予備校ではない。学校の特徴は、集団の教育力だと考える。勉強だけなら、学校に来る必要はない。クラスには力がある。1年間宜しく。

創刊の言葉

 突然ですがクラス通信を発行します。いつまで続くか分かりません。突然発行しなくなっても恨まないで下さい。読み終えれば捨ててもらっても結構ですが、教室では捨てないで下さい。もし教室の床に落ちているのを見つけたら、担任はきっと悲しむでしょう。持って帰って新聞紙と一緒に廃品回収に出して下さい。
 通信名を募集します。何かアイデアがあったら応募して下さい。これまで私が出した学級通信の名前は「ロクなクラス」(6組)、「下駄のあと」(2年2組)、「マンホールはなぜ丸い」、「二兎を追う者」などでした。応募がなければ、ずっと「名前はまだない」です。夏目さんではありませんが、これでもいいかも・・・。 内容ですが、担任が日頃思っている事を独り言のように書きますので、お付き合い下さい。気が向けば、学級日誌のコメントや感想を載せます。