こんな実験をしてみましょう。小説を3冊ほど用意します。シリーズものがいいです。3冊で一つの続き物になっている本がいいです。もし、それがなければとりあえず漫画本でも構いません。
通常は前から順に読んでいきます。1巻目が終われば2巻目に取りかかるのですが、ちょっと読み方を変えてみます。1巻目の1ページ目を読んだら、2巻目の1ページ目を読みます。続いて3巻目の1ページ目を読みます。今度は1巻目に戻って2ページ目、2巻目の2ページ目……というように、各巻の同じページ数のところを順番に読んでいきます。3つの巻を最初から、同時平行で読み進んでいくんでいくわけですね。
さて、そうすると話の流れはさっぱり分かりません。おそらくちんぷんかんぷんです。しかし、それでも我慢して読んでいきましょう。我慢しつづけていると、あるところ(おそらく8割程度読んだ頃ぐらい?)から突然わかり出します。その理解の仕方は劇的です。 一般に小説を読むときは、時間軸に沿って直線的(一次方程式)に理解すると思われます。ところが上のやり方だと、直線的とは言えません。少しずつではなく、全体のフレームが一気に分かるというイメージですね。
人間が物事を理解するとき、突然理解するということがありますね。「悟る」といった方がよいのかもしれません。手話では、右手を胸に当てて、下に動かしますが、納得したとか胸のつかえが取れた、というような感覚です。上記の実験はそれを人工的に味わおうとするのが目的です。 さて、勉強する喜びもそんな感覚ではないかと思うのです。この喜びは機械的作業学習や、無意味暗記、やらされている勉強をしている時には得られません。
社会科教員として、次のようなことを感じています。社会科は暗記科目だと思っている生徒が多いのです。確かに概念として、用語を知っていなければ現象は説明できません。ですからある程度の概念(用語)の暗記は必要です。しかし、社会科に限らず学習の目的は用語の理解にとどまらないことは当然です。ある分野の全体フレーム(全体構造)の理解や、原理・因果律(原因と結果)の修得にあると思います。そのためには、しんどくてもコツコツと勉強を続けるほかありません。すると時々、「あーそうなのか」と胸のつかえが落ちました…というようなことが出てきます。それが学習の喜びではないかと考えています。 1年に1度くらいは、「あーそうだったのか」と言われる授業を目指したいものです。そのためには、機械的な暗記学習だけでは不可能です(覚えなくていいということではありませんが)。探求的学習も必要です(このことは後日)。
(4号)
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