2008年11月21日金曜日

2年生におけるテレビ視聴の怪

 過日、生活実態調査をおこなった結果が、出された。これを見た瞬間????であった。4組の生活習慣が母集団から離れていることが判明した。愕然とする数字だ。どれぐらい学年全体との位置関係を分析することにした。 たまたま手元にソフトがある数量化Ⅳ類をもちいる。


 試しに、各クラスの進路希望データが以下の通りである。これを表計算ソフトに入れて計算させると、下にような軸と固有値が計算される。固有値は、どの程度の説明がつくかの指標である。この場合、1軸が0.7087あるので、ほとんど1軸で説明ができることになる。確かに理系クラスが理系方面で、文系クラスが文系方面だから、当たり前である。それを強引にグラフ化したものが、以下のグラフである。 下部に文系クラスが3クラスかたまり、上には理系クラスが位置している。4組は5組とグラフの点が一致している(これは作業上のミスだろう)。画像省略

 さて、これを使って生活実態を分析する。まず、「テレビの視聴」である。右上が1組、右下は4組で、それ以外のクラスは左手中央に位置している。1組が離れているのは、ほとんど見ない(または少ない)生徒が最も多いためだと考えられる。逆に4組は1組とは反対(離れた)象限にあることから分かるように、2時間以上が極端に多い(割合で言えば2倍)ためである。 具体的にみると、テレビを2時間以上見る生徒が全体では24.8%なのに対して、4組では51.3%となっている。読書などの生活についての,詳細は進路HRで口頭で(分析時間がない)…。

加古川市の高齢者は 解答編

 前回の問題は、「市は祝い金として80歳に2万円を、90歳に5万円を、100歳に10万円を贈っている。今年は該当者2092人に合計5571万円を贈った。」という問題でした。
 さて、解答は9月26日(つまり18号発行日の翌日)に早速、Iさんが寄せくくれました。正攻法というか、しらみつぶし法でたどり着きました。正解です。裏面に印刷しておきますから、見ておいて下さい。賞品に紅茶(おそらくダージリンのファーストフラッシュ)1袋を進呈します。 考え方としては、x+y+z=2092、2x+5y+10z=5571(xは80歳人口、yは90歳人口、zは100歳人口)とおいて、x>y、y>zのそれぞれの条件にあう自然数(格子点)を数えるという方針になります。K先生にお尋ねすると、整数論というのだそうで、補習でやったと仰っていました。もっと鮮やかに解答を頂きましたが、鮮やかすぎてクラス通信に再現不可能です。興味がある人は聞いてみて下さい。
(19号)

追記
20号にK先生の模範解答を掲載しました。

2008年9月28日日曜日

ホグワーツ魔法魔術学校では、なぜクリスマスを祝うのか?

 夏休みの私の宿題として、ハリーポッターの第2巻を読む、ということをクラス通信に書いておいたのだが、現在20ページを通過中である。しかし日本語訳の方は第7巻を読み終えたので、以下に感想をしたためておく。
 感想文のテーマは、「ホグワーツ魔法魔術学校では、なぜクリスマスを祝うのか?」である。
(1)はじめに
 クリスマスがキリスト教の行事であることは、疑い得ない事実である。この拙文では、ハリーポッターも通っていたヨーロッパ3大魔法学校の一つであるホグワーツ魔法魔術学校において、なぜクリスマスが祝われるのかについて述べる。
(2)魔法界におけるクリスマス行事
 まず、ホグワーツ校ではどのようにクリスマスを祝っているのか、その実態から説明する。 学校はクリスマスの1週間ほど前から休暇に入る。通例、クリスマス前にはハグリッドが12本のクリスマスツリーを大広間に運び込み、柊や宿り木の小枝で飾られる。 クリスマスデーのご馳走は、七面鳥のロースト、クリスマスケーキ、クリスマスプディングなどの伝統的なご馳走である。魔法クラッカーを鳴らす記述もみられる。また、第4巻では三大魔法学校対抗試合の伝統行事として、クリスマス・ダンスパーティが開かれている。 クリスマスツリー、柊、宿り木、七面鳥、ケーキ、プディング、ダンスパーティなどの記述から、ヨーロッパの一般的なクリスマスの情景が浮かび上がる。 では、学校以外の魔法界ではどのようにクリスマスと関わっているのだろうか。第5巻ではシリウスの屋敷で、シリウス自身が飾り付けに精を出し、クリスマスツリーを飾ったこと、屋敷しもべ妖精の首の剥製に、サンタクロースの帽子と白髭が付けられたことから、サンタクロースの存在も認められている。サンタクロースの成立は近代以後ではないかと考える筆者としては、その姿の詳細が知りたいところである。同様に、隠れ穴のウィズリー家においても、飾り付けがおこなわれた記述がある。 次に、クリスマスプレゼントについて検討する。例えばハリーはウィズリーおばさんからセーターを、父の友人(実はダンブルドア校長)から透明マントをもらっている。このように、魔法界においてもプレゼントの習慣があることが、明白となった。 以上のことから魔法界でも、マグルと同様にクリスマスを祝っていることがわかる。では、そもそもどこに問題点があるのだろうか。 (未完)
(18号)

HR 本日は施設利用

 上の写真で、彼らは、何をしているのでしょうか?以下の①~③から選べ。
①UFOの飛来を待っている。赤いジャージと青いジャージの生徒が混じっているのは、UFO向けの信号である。
②受験の神様を東高に呼ぼうとしている。中央の空き缶は神霊が寄りつくための「依り代」である。
③どうやって、担任を担ぐか相談している。どうやら9月23日(火)は集団エスケープすることにしたようだ。

注:「依り代」とは神霊が寄り憑く対象物のこと。呼ばれてきたが、依り代がないと何処にいて良いか分からないので、その周りに浮遊して漂い、その場の人に憑こうとする。

写真はプライバシーの観点から省略させて戴きます。
(18号)

加古川市の高齢者は? (新聞記事より)

 9月19日(金)付けの新聞にこんな記事がありました。
「市は祝い金として80歳に2万円を、90歳に5万円を、100歳に10万円を贈っている。今年は該当者2092人に合計5571万円を贈った。」
 そうなんだ、そんなに我々の税金を使っているのか…。ところで、その内訳はどうなっているのだろうか。この情報だけでは、文字が3つで連立方程式が2つしかできないから、この問題は解けないよね。いやまてよ、解けるかもしれない。
 というわけで、各年齢の人数を解答して下さい。もし複数の解答があるなら、何通りあるのでしょうか。人口学の常識として、①80歳人口>90歳人口>100歳、②自然数という条件もヒントにしておきましょう。最も早く「正解」した人に粗品を進呈します。
 ちなみに、私はまだ正解にはたどり着いていません。1つの解答例は求めましたが…。

総合的な学習「敬語と若者」の小論文

今回は香山リカ氏の若者と敬語についての資料文を読み、小論を書いてもらった。

①全体の意見としては、敬語を使うべきであるとする意見(資料文に否定的見解)が25名。
・勉強すべき・日本文化である・正しい敬語を・敬語は必要・身に付けるべき・敬語を使わず、敬意は表せない・生きていく上で必要・敬語はすぐれている・敬語ができなくても見守っていてね・使えないと不都合・最低限は必要・好印象を・若いうちに使えるように・教育の場を・大事・使って覚える・学びたい

②若者の絵文字やPSを肯定する意見は4人。
・必ずしも敬語は必要ではない・敬語は大切なのか・敬語を使わなくなるのは国際化・新しい敬語ができた

③資料文に対し部分肯定・部分否定的意見10人
・心のこもった表現大事・まず敬いの心・敬語を幅広くとらえる・若者を非難しないで・気持ちのこもった言葉なら・敬語を崩した方が友好的なことも・言葉は時代とともに変わるもの・日常に無理に敬語を取り入れなくてもよい・両方大事・両者の共存を

④時間切れで立場を表明できなかった1人

以下に、優秀そうな小論文を示す。
2編生徒作品紹介(省略)

以上の2編は、内容を変更したり、入れ替えりはしていない。この課題では、どちらかといと、敬語を肯定的にとらえる方が書きやすいだう。何故なら現状では敬語は歴然として存在しいるからだ。上の2例はそうなっている。 若者が使えないと言っても、社会全体からみば少数派である。したがって、敬語を全否定する論理展開は、かなり苦しい論とならざるを得ない。

生徒作品1編紹介

この小論は、文脈が予想しにくくて、打ちにくい文章でしたが、原文通りです。この文章では、敬語についは中立ですが、絵文字の方を時代変化の中で肯的にとらえようとしています。時間の流れの中、物事を見通す着想は結構なのですが、とにかく読みにくい。以下のように大幅に改編してみました。

「昨今、若者は敬語を使うことが苦手だ、ということがしばしば取り上げられている。その原因は①大人との交わりが少なくなったこと、②携帯電話が普及し、メールで絵文字を多用するようになったこと、が考えられる。
 若者の敬語使用が苦手になったことが、日本語の崩壊のように言われることは、悲しいことだと思う。日本語文化は守らなければいけないと考えている。
 しかし時代とともに言葉が変化することも事実である。例えば、平安朝の言葉を現代人が聞いてもわからないのは当然のことである。新な文化形態が発生したり、時代とともに移り変わるのは仕方がない面もある。つまり、若者が言葉を変えていっているように言われるが、今の大人たちも、その子供の頃と比べれば変化してきているはずだ。
 したがって、言葉は変わっていくものと肯定的にとらえる柔軟さも大切だ。」

もう一編紹介しましたが、省略します。
(17号)

時間の流れを区切ること

 9月1日LHR時に話した担任講話を打ち直しました。
 世の中の現象は、連続的な現象と、非連続な現象の二つに分けられます。季節変化は先に進んだり戻ったりしながら、少しずつ変化するもので、時間軸に沿って連続的に変化する現象の一つです。
 人間は連続的な現象に抗して、区切りを持ち込みました。1時間とか1日とか1年という時間単位がそうです。自転周期で決めた1日と公転周期で決めた1年は基準尺度が違うに、閏年を設けて、無理矢理整合性をとっていますしネ。
 さて、9月です。夏休みも終わり学業の再会です。気温は相変わらず高いのですが、人間社会の区切りには従わなければなりません。設定を学校モードにあわせましょう。

 話は変わって成績である。入試の場合、受験生の得点を成績の上位から下位まで、連続的に並べるとします。そして60点と59点とはどう違うのだと聞かれても、そんなに違わないよと答えざるをえない。しかし定員から判断して、60点は合格で、59点に不合格になるということは、よくある話である。
 つまり連続的な現象に、不連続面を設ける作業は、きわめて人間的な作為と言えるのではないだろうか。この問題は、もう少し項を改めて、考えてみたい。

担任の夏休み

 生徒には、勉強頑張れと言いながら、担任はどうするつもりなのか、と疑問のむきもあろう。担任が、休業中にやろうと思っていることを少し書留とおきたい。ここに書いておけば、少しはやる気になるだろうと…
・ハリーポッターを読む:第2巻である。第1巻を読むのに1年かかったので、やっと2巻目である。ハグリッドの方言がかった言葉など結構慣れるのに時間がかかる。7月23日に出版される日本語版第7巻は当然、速攻で読み終わるつもりだが…。
・論文を2本投稿する:1本は、総合的な学習の授業実践をまとめているのだが、なかなか…。10月締め切りの原稿はテーマすら立っていない(泣)
・家族サービス:未定
・研修会に3つほど参加する。GIS関係、地理関係など。
では、よい夏休みを!
(16号)

オープンキャンパスに行ってね

 生徒には「オープンキャンパスに行け」と、いいながら、担任が何もしないのではいけない、というわけで、三重大学に行ってきました。加古川から車で2時間10分です。新名神ができたので、京都から1時間で行けます。大学生で2時間は通学圏ですね。友人で2時間かけて通学している人がいました。ただし高速料金は3600円(片道)です(笑)。
 三重大は津駅から一駅北の最寄り駅から徒歩可能です。伊勢湾がすぐそばの恵まれた環境です。医学部、教育学部、工学部、人文学部等が一カ所にかたまっています。一番広いのは医学部でしょう。付属病院は消化器系が有名です。
 私の出席した研究会は、人文学部であったのですが、7階建ての生物資源学部の立派な建物のすぐ隣のこじんまりした建物でした(人文系は虐げられています)。近くには生協の学食もあったのですが、休業中でした。国立大は、キャンパスはのんびりしていて(広々としていて)、どこでも似た雰囲気ですね。あちこちに自転車止めがあって、整備されています。付属病院のそばには女子寮があったような気がしますが、接近は憚られました。
(16号)

芸術鑑賞会感想

7月16日芸術鑑賞会で狂言を鑑賞しました。「呼声」、「伯母ヶ酒」、「濯ぎ川」の三番です。

生徒感想省略

担任の感想:狂言って面白いですね。「呼声」はどこかで見たことがあるような気がして、仕方がありませんでした。最後の場面は既視感があったのですが、どこで見たのかどうしても思い出せません。その夜、風呂に入っていて、NHKの「日本語であそぼ」でやっていたことを思い出しました(えらくかかったなぁ)。

2008年7月14日月曜日

ごまかし勉強とは何か

 以前クラス通信でごまかし勉強について、少し述べた。ここではごまかし勉強と正統派学習について、もう少し詳しく述べたいと思う。それは生徒諸君の小テスト対策をみていて、考えるところがあるからだ。なお、この記事の出典は藤沢(2002)「ごまかし勉強」をまとめたものである。
 ごまかし勉強の特徴
・試験にあまりでない項目は切り捨てる。理解するのが面倒な項目も切り捨てる(学習対象の限定)
・深化学習や発展学習はおこなわない。
・言葉や用語の意味は分かる必要はない。あるいは、教科書ガイドやワークブックに載っているので、辞書を引かない。
・要点の図解は、資料集にいくらでも載っているので、自分でまとめてみる何てことはしない。
・問題の解法は1通り知っていれば、テストで答が得られるので、別解を考えたりしない。
・つまり、テストに出ないことはしない。
・定着作業だけは、試験直前に時間をかけて、繰り返しおこなう。
・暗記材料はトレーニング教材を用いる。あるいは、教科書にチェックペンでマークを入れ、丸暗記しようとする。
・このような作業は、全く面白くないが、勉強とは面白くないはずだと、割り切って考えている。
・とりあえず我慢して定着作業だけを繰り返す。このやり方で勉強すると、結構点数がとれるので、達成感がある。結果が良ければ全てよしで、これが正しい勉強法だと信じてしまって、ごまかしていることに気づかない。
 生徒から次のような質問を受けることがある。
①この空欄には何が入るんですか。
②その板書はノートに書いた方がいいですか。
③そのプリントの答はないのですか(課題プリントを配ったとき)。
 ①の質問は空欄に入れることを覚えればいいという感覚が背景にありそうだし、②については、ノートに書いた方がいいかどうかという価値判断=テストに出るかどうかという価値判断、ととらえることができそうである。③については、もはや生徒は教科書などで調べて、自分でプリントをこなそうという感覚を持っていない。課題プリントをする=答書き写して丸暗記すること、と判断していることが分かる。これらはごまかし勉強の一部である。
 ごまかし勉強の実例…これまた前述の書物からの引用させて頂く。
【英語の場合】
宿題で単語調べや全文訳を要求する先生の場合には、全て教科書ガイドに載っていますから、ノート点検がある場合には、これを写しておきます。授業中は、どこがテストに出るかに注意して聞き、出そうなところは教科書にマークしておきます。訳語選択が面倒なので、辞書は使いません。試験前には、担当の先生がプリントを配布した場合はそれを、そうでなければ出版社の作った暗記材料を暗記します。予想問題を入手し、出そうな問題の解答を暗記します。単語の練習時間があれば、綴り練習と一つに絞った訳語だけを暗記します。
【数学の場合】
予習を要求する先生の場合は、教科書ガイドの解答をノートに写しておきます。そうでない場合は、黒板に示された模範解答を忠実に移すようにします。最初から自分で解くと、誤りがノートに残ってしまうことがあるので、できるだけ予習は避けます。テスト前には、最小限の問題パターンを、誰か(友人・塾・出版物)に教わり、それの解法を書き写して暗記します。解法も一題一方法に限定します。なかなか覚えられない場合は、覚えるまでひたすら数をこなします。
【社会の場合】
授業中に試験に出そうなところを聞き取り、教科書にチェックペンでマークします。試験前にはこれに遮蔽板(色シート)をのせ、空欄補充問題集として、用語を暗記します。意味がよく分からない場合でも、できるだけ疑問は持たないようにして、機械的暗記に務めます。記述式問題が試験に出る場合には予想問題を入手し、模範解答を記入して暗記します。
 大体、ごまかし勉強のイメージは掴めたでしょうか? タイピングに疲れたので、本日はここまで。

これは何? 解答編

 石棺です。石棺は蓋と身からなっていますが、これは石棺の身です。上下併せてワンセットのうちの下の方です。つまり亡骸が入る方ですね。
 この石棺は、西門の近く、クラブハウスの横にあります。是非、一度見に行って下さい。この話を主任のT先生としていたら、1年担任のN先生が、わざわざ加古川市史第四巻の一部をコピー持ってきて下さいました。
 これによれば、加古川市内には棺蓋63例、棺身82例が存在し、これは近隣市町村と比べ、かなり多い方ようだ。本校の石棺も紹介されている(p.377)。市内では最も大きい棺身だということである。T校長先生曰く、県立考古博物館に知られたら、持って行かれてしまう…、とか。
 材質は、やはり竜山石が多いようで、この棺身にように、水抜き穴があけられ、手水鉢に利用されたものも多いそうだ。
 個人的に面白いと思ったのは、石棺は市内の古墳群周辺に分布するので、古墳群からそれほど移動していない(市史)、という説だ。本校の棺身もそれほど遠くないところから持ってこられたものであろう。
 これを知った時、地理の古典的エピソードを思い出した。ロンドン市内でコレラが流行した際、ある医師が、患者の発生地点を市内地図上に落としたところ、患者の分布から、原因となる井戸を特定することができた、という話である。分布論は非常に有効な考え方だな、と実感した次第だ。
(14号)

体育祭予行をおえて

お疲れ様でした。はじめて予行を見ました。生徒会や団幹部は頑張っていることはよく分かります。でもはっきり言って怠いです。これは一体どこから来るものなのでしょうか?
 それについての解答は保留することにして、10年ほど前のある高校の体育大会のことを思い出しました。
 以下には、その高校のことです。 その学校でも、10年ほど前までは、生徒会中心で体育祭を実施していました。予行ではなかなか生徒会執行部が生徒を動かすことができず、もたもたしています。それを教師は見ていて、アドバイスをするだけです。教師が前面に立つことはありませんでした(うちの学校と同じですね)。予行の反省会では、生徒会役員は泣いてしまいます。
 それで、その反省にたって、本番はなんとかやり遂げられる…という状況でした。ところがだんだん生徒会が生徒を指示しきれないようになってきました(うちと似ていますね)。
 そこで、体育科の教員を中心に指示が出るようになり、現在では教師の仕切りのもとで、生徒会が動くようになりました。むろん生徒会も頑張っていますが、完全な自主的運営ではなくなっていきました。
 どこに問題があるのでしょう。
・生徒会役員のリーダーシップが下がったのでしょうか?
・生徒の意識が低下したのでしょうか?
・教師集団が生徒の様子に我慢できなくなったのでしょうか?
 いろいろ原因は考えられると思いますが、この教訓として言えることは、生徒の力が下がれば、教員が行事の主導権を握るだろうということです。それが恥ずかしいことだというように考えられますか?
 一方では、生徒が一人残らず、軍隊のごとく同じ方向を向いているという状況もどうかという気持ちも、心の中にはあります。しかし、少なくとも同じ仲間の生徒が頑張っていれば、応援する・協力する・一緒に作り上げよう…という気持ちがおこって当然ではないかと思うのです。
 一般社会においても自治を維持するのは大変です。侵されやすいものです。でもその重要性もかみしめてほしいのです。これが社会科教師としての言いたいこと(結論)です。
(12号)

これは何? その1

 校内にこのようなものがあります。長さは170cmあります。外見は直方体で、中は四角くくり抜かれています。材質は、凝灰岩のようです。したがって竜山石の可能性があります。
・これは一体なんでしょうか? ・また、これはどこにあるのでしょうか?分かった人は、こっそり耳打ちして下さい。








写真のように、隅に穴があけられています。底面が筋状にへこんでいることから、水流によって削られたのではないでしょうか。どこからか持ってきて、洗い場か手水鉢に利用されていたのではないかと推測されます。


(12号)

2008年6月29日日曜日

白鳥の托卵行動

 托卵とは、ある鳥が他の鳥の巣に卵を産み落とし、その後の抱卵と育成をその巣の主に任せてしまう行動である。日本では古代よりホトトギスがウグイスに托卵することが知られていた。またカッコウの托卵も著名である。
 さて、標題の「白鳥の托卵行動」についてである。これについては、聞いたことがないかもしれないが、実は1843にデンマークでの報告が1例ある。ある高名な研究者が白鳥の託卵について報告している。この研究家は、燕の渡り研究や、少女の白昼夢を素材とする防衛反応の研究、など幅広く興味を示した人物で、小説家としても知られている。
 一般に托卵は、托卵される鳥のものと大きさや色、形がに似ていて、孵化期間も托卵する方が短期間である。例えば先に孵化したカッコウの雛は、モズの卵を巣から押し出し、親鳥からの餌を独占する。知らぬはモズの親鳥だが、それは仕方がない。
 彼すなわちアンデルセンの報告によれば、白鳥の卵は家鴨よりも大きいという。これは他の事例とも整合するのだが、奇妙なことに、孵化するのは、家鴨よりも遅く最後であったという。一般に最後に孵化した場合、他の雛の成長の方が先行するため、餌を十分もらえず餓死するか、巣の中で圧迫しする危険性が高い。にも関わらず、白鳥の雛は家鴨の雛と比べても、大きく成長したと報告している。 アンデルセンの報告以後、白鳥の託卵行動は報告されていない。彼の報告の背後には何らかの企(たくら)みがあったのではないかとの疑いもあり、今後の研究が待たれるところである。
(11号)

2008年5月23日金曜日

人権HRの生徒感想を読んだ担任の感想についてのコメント

 過日クラス通信7号において、君たちの感想を読んだ感想を述べた。少し「謎かけ」的なところもあったので、少し真面目に担任の見解を述べておきたいところだが、私にはそのような力量はない。そこで山口大学人文学部の入試問題で誤魔化しておきたい。
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 文化や言語圏を問わず、生まれ落ちた赤ん坊が初めて覚える言葉は、自分の生存に直接かかわる基本語に決まっている。たとえばママ、パパ、マンマ……といった、両親や食べ物に対応する言葉。
 ところが最近の赤ん坊は、ちょっと様子が違うらしい。そういう基本語よりも先に、いきなり「パンパース」(オムツ)、「ヒップ」(エレキバン)、「マープ」(増毛法)といった商品名をしゃべり始めた赤ん坊の話を聞いたのは、ずいぶん前のことだ。つまり親よりもメディアに“刷り込み”された赤ん坊が、いきなり自分の生存と無関係の言葉をまっさきに学習してしまう時代なのだ。
 もちろんこれは特に象徴的なひとつのサンプルにすぎないのだけれど、すでに原始的な言語学習段階で、このような〈自己と言葉の乖離〉が始まっているという事実に、ぼくたちはもっと驚いてみてもよかった。それはつまり「言葉が肉体化されない」ということである。
  中略
 さて、そんな言語環境で育ってきた子どもたちが、いきなり「さあ、ありのままのあなたを自由な言葉で表現しましょう!」などと言われて、「はい、そうします」とスラスラ自己表現できたりするものだろうか? 最近は入試問題に〈自由作文〉とやらを出題する学校が増えてきた。「どれ、今度は個性と創造力とやらを評価してやろうじゃないの」ってぇ魂胆なのだろうが、そうは問屋が卸さない。子どもたちは、それが「出題」である限り、当然のように出題者の意図を見透かして、自分のデータベースから「模範解答」を引っ張り出してくる。いわゆる〈良い子の作文〉を見事に演じきって見せるのだ。
 たとえば出題者は、100%の自由作文では「採点」が面倒なので、簡単なテーマを与える。〈雲〉とか〈水〉とかの、まるでお題噺のような、すると大半の子供たちが、雲の種類や発生過程、水の循環や生成過程などに関するありったけの知識を駆使した「論文」を書いてしまうのだという。出題者は面食らったのだが、「不正解」にするわけにもいかない。で、結局、文章としての体裁が整っていて誤字・脱字さえなければ、合格点をつけるしかなかったとか。
 このジョークのような実話は、いつか国語作文研究所の宮川俊彦さんから聞いた。
 もちろん笑いごとではない。そんなプロセスを経て、彼ら〈いや、もはや他人事ではない〉は、仮想の言語空間の陰に「けっして表現されない自分の言葉」を隠蔽してしまう。ぼくたちが、たとえば天下国家を語る正論や一般論ならスラスラ論じたり書いたりできたりするのも、実は「しょせんは自分に関係ない」と思っているからなのかもしれない。すべては〈肚の外〉の話なのだ。
 これも宮川さんに聞いた体験談なのだが、ある日の作文教室で、彼はこの国の学校ではお目にかかれない作文課題を、子供たちに与えた。
 《日本と韓国がもっと仲良くするためには、どうすればいいのか》というテーマだ。ちょっとあなたも考えてみてほしい。
 大方の子供たちが書いた作文は、たとえばこんな内容だったらしい。
 「政治家がもっと誠意をもって外交すればいい」
 「天皇が韓国に過去の侵略をちゃんと謝ればいい」
 「経済協力や貿易をもっと盛んにすればいい」
 「日刊平和条約を結べばいい」
 ……とまぁ、国語や社会の授業なら模範解答になりそうな立派な正論の数々だ。
 でも彼が一番高く評価したのは、そのなかでも一見幼稚でたどたどしい、こんな内容の作文だった- 「日本人と韓国人がお互いにひとりひとりともだちを増やしていけばいい」
 もちろんこれは正解のある試験じゃないので、その子だけ褒められて他の子は叱られるというようなことはなかった。
 ただ問題は、それを自分の手の届く〈現実〉としてとらえることができるか-ということだ。どこかで聞いたような「自分と関係ないフィクションの問題」ではなく。そして、これは子供たちよりも、むしろ大人たちの問題なのだ。子供たちは大人がつくりあげた情報環境に必死に適用しようとしただけだ。もちろん、この子の作文もバリエーションにすぎない、と言ってしまえばそれまでなのだが。
 殺人や自殺といった子供の事件に、しばしば作文がからんでいるのは、きっと偶然じゃないのだろう。それは仮想の言語環境と彼らの〈肚の中〉とのせめぎ合いが、いよいよ限界に達した臨界点で噴き出した、土壇場の自己表現なのかもしれない。彼らもまちがいなく〈肚の中〉から発する言葉を渇望しているのだ。
 山崎浩一『危険な文章講座』ちくま書房、1998。一部改変、中略あり

●問
「しょせんは自分に関係ない」仮想の問題でなく、まさに自分の問題としてあなたが切実にうけとめるのは、たとえばどのようなことですか。自らのテーマを立て、そのテーマについて考えられるところを、「〈肚の中〉から発する言葉」によって、1000字程度で述べなさい。
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担任のコメント: これだけ書けば(ワープロなので打てば)、担任の言いたいことは分かってもらえるでしょう。ちょっと長いので、読むのを拒否した人もいるかもしれませんねぇ。
 それはさておき、いやー山口大学人文学部、頑張ってますねぇー……。高校生というものは、問に対して正解となるストライクゾーンを想定し、それから玉(答)を投げ込んでくる。それが受験では普通の対応です(それが全ての日常生活で正しい方法とは限らないのだが)。しかし、そのストライクゾーンを設定させまいとする山口大学人文学部。この勝負、どうなったか結果を見てみたい気がする。

(10号)
現在、考査期間なので、このクラス通信はテスト後(5月末)に発行予定です。

文化部発表会の感想 

口頭でも言いましたが、なんだか私の高校生時代の文化部発表会を見ているような気分でした。私の母校でも文化部発表会と呼んでいて、文化部のステージ発表と展示が中心でした。数十年前のことです。2年に1度一般公開をしていました。その後、1980年代になると文化部活動は衰退し、多くの学校では文化発表会が成り立ちにくくなりました。文化部の力だけで、これだけの発表が維持できると言うことはすごいことだと思っています。
 ちなみに私は天文班(母校では文化部は部ではなく班と呼んでいました)で、太陽黒点観測の係をしていました。流星観測も大分やりましたが、懐かしい思い出です。

●経費削減のため、発行回数を減らし、裏表印刷にします。
(9号)

ミッション 高瀬舟

担任のコメント
4組の生徒の進路希望をみると、医学、獣医学、看護系それに薬学、医療系、生命科学等をあげる生徒がかなりいることが判明しました。そこで、「高瀬舟」をLHRで取り上げたいと考えました。
 森鴎外(鴎は本来異体字です。本来の字はこのパソコンでは印刷できません)は大正5年にこの短編を書いています。
 彼の職業は軍医ですから、一般の人とは異なり死や人体について深く考察できる環境であったと推察できます。しかしながら、安楽死というテーマを取り上げた先見性を感じずにはいられません。
 生徒の感想を集計した結果、安楽死を認める立場29名、認めない9名、その他1名でした。これまでの生徒の感想と比較すると、安楽死を認める立場が増加しているような気がします。安楽死を認めると言っても、様々な意見がありますが、論点として、
 ①対象が自分本人なのか、親しい人なのか、それとも赤の他人なのか、によって意見も変わってくるのではないでしょうか。
 ②対象となる人が安楽死の意思表明をしている場合としていない場合ではどう考えればいいのでしょうか。
 ③安楽死を認める意見の場合、誰が同意すれば認められるのでしょうか、本人それとも親族でもOKでしょうか、
 などなど、議論の尽きぬところです。
 ところで近代における人権の歴史は、人権概念の拡大の歴史と言ってよいかもしれません。市民革命期には自由権や平等権が主張されました。20世紀にはいると社会権が登場しました。近年では環境権やプライバシー権などが「新しい人権」として確立されようとしています。 また、近代初期には人権の適用範囲は男性だけでしたが、女性にも拡大してきました。それと同時に医療技術の進展に伴って、人間の一生においても人権が拡大しつつあります。まず人権は大人だけでなく子供にもあることが主張されました。未熟児にも人権が存在するといってもいいかもしれません。人工中絶は22週未満です。
 終末医療が注目されるのも、人権概念が死の直前にもあると考えられるからでしょう。そればかりではなく「尊厳死」は死の瞬間にも人権があると言うことでしょうか。さらには散骨問題(自分の遺骨を海に撒くなど、どう処理するか)も死後の人権主張なのかもしれません。担任の私見としては、安楽死もそうした文脈で理解するべきことなのかなと愚考します。
(9号)
クラス独自のHRで、「高瀬舟」の読書HRを行いました。安楽死について、意見を求めミニ討論を行いました。賛否両論をクラス通信に掲載しましたが、今回はそのまとめです。

嘆願書

●このようなもの(席替えについての嘆願書)が、9日担任のもとに提出されました。
 うーむ…、嘆願書と契約書を混同しているようだが…、高校生だし…まあしょうがないよね。
 詳細は作成者と相談してから、口頭にてお返事します。


以下、画像ファイルより、署名欄等を除き,抜粋。通信では画像ファイルである。

一、この席替えは生徒の気分転換、新しい友との交流を目的としておこなわれる。
二、席替えは各月のはじめに定期的におこなわれる。
三、二にて定めた条項は過半数の反対により、方針を変更できる。
四、この嘆願書は生徒、教師の両者の意見を尊重するために、作成される。
五、おこなわれた席替えについて、不満があるものは特別な理由がある場合を除くときは、その場にとどまることができる。
六、五は両者の意見により、調整できる。
七、席替えはHR等で定められた方法で公正に行わなければならない。
八、七の方法に不正がある場合は、その席替えは無効とする。
九、これが受領されると同時にこの事項は効力を発す。生徒37名の意志をここに示す。

人権HR感想を読んでの担任の感想

 ある大学生が中学校へ教育実習に行き、ある授業(人権の授業ではない)をしたそうです。その実習生は授業の流れの中で、同和問題に触れたのですが、その流れを切ることができなってしまいました。そこで実習生は「部落差別はいけません」と言って同和問題に区切りをつけ、元の授業の流れに戻ったそうです。
 後日、中学校の先生から大学に対して、「大学ではどんな人権教育をしているのですか」という苦情がきました。なぜだか分かりますか?君たちの感想を読んで、そのことを思い出しました。

補足:このコメントの前に生徒全員の一言コメントを掲載しています。
(7号)

席替え

 なぜ席替えをするのか? 何も考えないで、惰性で席替えするのは嫌なんです。担任は席替えをしなくても、ちっとも困りません。
 なぜ席替えをするのか考えて下さい。理由は一つや2つではないはずです。皆さんがよく考えることができたら、席替えをしましょう。誰がどうやってみんなの考えをとりまとめるかは、任せます。
 ついでにいうと、教師は権力を持っています。権力に対して、自分達の要望を通すときにはどうすればいいのでしょうか。
(6号)
補足:生徒から、席替えをして欲しいという要望が出されました。それに対するコメントです。

2008年5月18日日曜日

クラス通信の名前が決まりました(決めました) 


上記の通りです。??かもしれませんが、まあいいではありませんか。誰からも通信名の応募がなかったので(無関心?)、独断で決めました。 最初の記号はインテグラル(integral)です。数式はとりあえず、数学Ⅱの範囲内でおさめています。2年生の後期になれば、数式の意味を理解し、担任が言わんとするところを汲み取ってもらえるものと信じています。 EFFORT関数などというものは存在しないとか、等式が成立するのか、など細かなことは言わないようお願いします。数学の文法に照らして正しい表現方法かどうかは、勿論自信がありません。ユーモアと解して下さい。一応、日本語の読み方をつけておきましょう(K先生に聞きました)。「インテグラル、0から無限大、Effortdx(そのまま読みます)、イコールSuccess」です。 最近、2000本安打を達成した阪神の金本選手の言葉で「練習は嘘をつかない」というのがありました。日本語訳はそれでもいいのですが、こででは「学習は嘘をつかない」ぐらいでしょうか。
(5号)

2008年5月7日水曜日

納得すること

 こんな実験をしてみましょう。小説を3冊ほど用意します。シリーズものがいいです。3冊で一つの続き物になっている本がいいです。もし、それがなければとりあえず漫画本でも構いません。
 通常は前から順に読んでいきます。1巻目が終われば2巻目に取りかかるのですが、ちょっと読み方を変えてみます。1巻目の1ページ目を読んだら、2巻目の1ページ目を読みます。続いて3巻目の1ページ目を読みます。今度は1巻目に戻って2ページ目、2巻目の2ページ目……というように、各巻の同じページ数のところを順番に読んでいきます。3つの巻を最初から、同時平行で読み進んでいくんでいくわけですね。
 さて、そうすると話の流れはさっぱり分かりません。おそらくちんぷんかんぷんです。しかし、それでも我慢して読んでいきましょう。我慢しつづけていると、あるところ(おそらく8割程度読んだ頃ぐらい?)から突然わかり出します。その理解の仕方は劇的です。 一般に小説を読むときは、時間軸に沿って直線的(一次方程式)に理解すると思われます。ところが上のやり方だと、直線的とは言えません。少しずつではなく、全体のフレームが一気に分かるというイメージですね。
 人間が物事を理解するとき、突然理解するということがありますね。「悟る」といった方がよいのかもしれません。手話では、右手を胸に当てて、下に動かしますが、納得したとか胸のつかえが取れた、というような感覚です。上記の実験はそれを人工的に味わおうとするのが目的です。 さて、勉強する喜びもそんな感覚ではないかと思うのです。この喜びは機械的作業学習や、無意味暗記、やらされている勉強をしている時には得られません。
 社会科教員として、次のようなことを感じています。社会科は暗記科目だと思っている生徒が多いのです。確かに概念として、用語を知っていなければ現象は説明できません。ですからある程度の概念(用語)の暗記は必要です。しかし、社会科に限らず学習の目的は用語の理解にとどまらないことは当然です。ある分野の全体フレーム(全体構造)の理解や、原理・因果律(原因と結果)の修得にあると思います。そのためには、しんどくてもコツコツと勉強を続けるほかありません。すると時々、「あーそうなのか」と胸のつかえが落ちました…というようなことが出てきます。それが学習の喜びではないかと考えています。 1年に1度くらいは、「あーそうだったのか」と言われる授業を目指したいものです。そのためには、機械的な暗記学習だけでは不可能です(覚えなくていいということではありませんが)。探求的学習も必要です(このことは後日)。
(4号)

ルーチンスの水がめ問題 解説

 さて問題は解けたでしょうか。9は少し手こずったかもしれませんが、後は楽だったのではないでしょうか。式は9がD=B-A-11Cで、残りの問題はD=B-A-2Cとなっています。これが普通の人の解答です。
 実は問題6以降は、2つの水がめを使うだけで、くみ出せるようになっています。問題6はD=B-7Cです。しかし、問題7と9はD=A-C、問題8と10はD=A+Cで答えが出ます。6を水がめを3つから2つにしたところで、作業が本当に楽になるかどうかは微妙なところです。しかし問題7以降は、2つの水がめにした方が明らかに楽です。
 しかし、問題1から6まで、1つのやり方(D=B-A-2C)でうまくいった人は、なかなか方法を変えることができません。実際やってみていかがだったでしょうか。問6で、すぐに気付いた人はまれに見る思考の柔軟さの持ち主です。これが有名なルーチンスの水がめ問題といわれるものですです(引用:『ごまかし勉強 下』 藤澤伸介著)。ちなみに、友人のある数学の先生は問題6から2つの解答が頭に浮かんだそうです(素晴らしい)。
 以上の実験と説明から、「うまくいった体験」は強烈で印象が持続することがわかります。最近、生徒と面談をして感じる事は、「学習において中学校までの成功体験が、高校に入ってからも持続しているのではないか」ということだ。具体的に述べると、高校に入り勉強量・授業進度・学習の目的などの環境が変わったにもかかわらず、「中学校の時は日常的には宿題だけをしていて十分だった」とか、「テスト前勉強でそこそこ点が取れた」という成功体験があると、その成功体験によって勉強法を変える事が出来にくい、ということである。 ここまで述べれば、私が何を言いたいかは察しがつくでしょう。正しい勉強法でごまかさないで学んで欲しいということです。では、正しい勉強法とは何か、これについては、徐々に考えていきたいと思います。面談をしていると、「今、勉強法を模索しています」とう生徒が結構います。是非、考えてみて下さい。

ルーチンスの水がめ問題 

 次の表を見て下さい。これはルーチンスの水がめ問題と呼ばれているものです(Luchins,1942)。
<課題>3つの大きさの異なる水瓶(A~C)を用いて、必要な量の水を得るにはどうしたらよいでしょうか。
 問題1は、A欄の29リットルの水がめと、B欄の3リットルの水がめを用いてD欄の20リットルを汲み出すという問題です。表の横に計算式を書いてみましょう。問2はどうでしょうか。以下、表の横に計算式もすべてメモしながら、面倒がらずに最後までやってみて下さい。驚くべきことが発見されるかもしれません。
 解答は次号とします(ということは、近々3号を出さなくてはならない?)。
│問│使用する水瓶の容積(ℓ)│くみ出す量(ℓ) │ 解答(計算式) │
│題│ A   B   C │  D │
│1 │ 29  3    20 │   A-3B │
│2 │ 21  127  3   │ 100
│3 │ 14 163 25 │ 99
│4 │ 18 43 10 │ 5
│5 │ 9 42 6 │ 21
│6 │ 20 59 4 │ 31
│7 │ 23 49 3 │ 20
│8 │ 15 39 3 │ 18
│9 │ 28 86 3 │ 25
│10│18 48 4 │ 22
│11 │ 14 36 8 │ 6              表が崩れてしまいました、多謝!

無遅刻・無欠席

 今のところ、4組は無遅刻・無欠席である(15日現在)。これはとても大事なことだと思う。
 昔々、京都の某進学校R高校で講師をしていた。クラスの半分ぐらいが京都大学に行くような、ある2年理系クラスのクラス目標は、「遅刻・欠席をしない」であった。私は、「へー、そうなんだ」と思ったことを思い出した。勉強に向かう基本は、学校に目が向いていることであるし、また日頃の積み重ねが大事だとも思う。それは、私立の超進学校といえども、同じことである。
 さて姫路の市立某H高校のことである。1年生のあるクラスは、一学期間、無遅刻・無欠席を続けたらしい。それを校長先生が7月の終業式で全校性に紹介した。するとそのクラスでは欠席ができなくなって、みんな必死で無遅刻・無欠席を続けたようだ。冬になって、発熱があっても出てきて、昼休みで早退する生徒も出たほどで(早退であって、欠席ではない)ある。きっと「自分が記録を止める訳にはいかない」という意識が働くのであろう。 とうとう一年間、そのクラスは無遅刻・無欠席を通したそうだ。素晴らしいことである。2年生になって、各クラスに分散した生徒は、その後無遅刻・無欠席を続けたのか。それは君たちの予想通りである。すぐに欠席する生徒が出てしまった。これはつまり、クラスの力(集団の教育力)というものが存在することを示している。学校は塾や予備校ではない。学校の特徴は、集団の教育力だと考える。勉強だけなら、学校に来る必要はない。クラスには力がある。1年間宜しく。

創刊の言葉

 突然ですがクラス通信を発行します。いつまで続くか分かりません。突然発行しなくなっても恨まないで下さい。読み終えれば捨ててもらっても結構ですが、教室では捨てないで下さい。もし教室の床に落ちているのを見つけたら、担任はきっと悲しむでしょう。持って帰って新聞紙と一緒に廃品回収に出して下さい。
 通信名を募集します。何かアイデアがあったら応募して下さい。これまで私が出した学級通信の名前は「ロクなクラス」(6組)、「下駄のあと」(2年2組)、「マンホールはなぜ丸い」、「二兎を追う者」などでした。応募がなければ、ずっと「名前はまだない」です。夏目さんではありませんが、これでもいいかも・・・。 内容ですが、担任が日頃思っている事を独り言のように書きますので、お付き合い下さい。気が向けば、学級日誌のコメントや感想を載せます。

2008年4月22日火曜日

開始します

このブログにクラス通信を掲載します。
県の規定に基づき、職務上知り得た情報は、掲載できません。したがって担任としてのコメントとエッセイを順次、綴ることにします。